2005.08.10

なあるほど、こういう仕掛けだったのか

 昨日は何と5000アクセス超。何をかいわんやである。もちろんいろいろな人が言及してくれたからだが、一番の理由はいわゆる「アンテナ系」あるいは「クリッピング系」blogからのリンクで、しかもエントリーの中でちょこっとだけ触れた「ホワイトバンド」に反応しているものが多い。何だ、そんなことで集まるのか。確かに、うちのオープンキャンパスでの学生の企画がどうこうということに、そんなに関心が集まるわけないものね。
 キーワードやフレーズ検索から見知らぬ人が集まってきて、そこでさらにブックマークをつけてくれる人のフィルターを通して集まって来るわけだ。そうすると、またまた趣旨がねじまがって受け取られ、たとえば「専門家のどこが悪い」とか「専門学校生を馬鹿にするな」とかいう変な反応が広がっていく。こういうのは、ワード検索やフレーズ検索というものが引き起こす悪しき脱文脈化の効果である。一応、ぼくたちがやっている仕事は、「文脈を作り上げて行く」という作業なので、こういう反応を目にするとすごく疲れる。ちなみに補足しておけば、文脈とは、いつ、どこで、だれが、何について、誰に向けて、どのような状況で語っているかということである。それを抜きにして、単なる言い回しや言葉尻だけを捉えられても返答のしようがない。というわけで、やはり100人程度の、いつもここを読んでくれる人たちだけを相手に書いていきたいものだと思った。
 あのね、確かに「現実」の大学は専門学校と大差ないかもしれない。下手したら負けることもあるかもしれない。だけど、一応大学で働いている人間が専門学校よりもずっと高度なことをやっているのだと言えなくなってしまってどうする? 別に中卒でも高卒でも専門学校卒でも、個々の人間として劣っていると言っているのではないよ。そんなのは本人次第に決まっている。だけど、「大学」が「専門学校」よりも「上」なのだとはっきり言えなくなったら、そもそも大学の存在価値はなくなるではないか? じゃ、それは何なのかということを言いたいのだ。
 世の中には専門家であるとか、プロであるとかいうことに変なプライドと誇りをもっている人が多いが、じゃそんな「専門家」による文明(専門分化主義)がいつどこでどうして発生したのかを考えたことがあるのだろうか? マックス・ウェーバーを持ち出すまでもなく、たかだかこの二三百年のことにすぎない。パスカルだって、ライプニッツだって、ケプラーだって、空海だって(‥‥以下略)、専門家などではなかった。専門家とは、近代の生み出した社会システムに対する人間の部分的隷属形態(マルクスなら「疎外」と呼ぶような)にほかならない。要するに歯車とネジのことであり、人間がそうした「役割」や「機能」に限定されることだ。つまり、「専門家でしかない」という条件を引き受けざるをえないのが、近代以降に生きる我々の根源的な不幸なのである。専門家やプロでなければ世の中から認められない—これは、悲しいことなのであって、けっしてうれしそうに語ったり、自慢したりすべきことではないでしょう。ましてや、それに居直って「全然本は読まない」とか「直接自分が体験したことしか信じない」とか言っている人たちは、知的な欲望を中断し放棄していると言わざるをえない。専門家であるということは、だから社会的には尊敬されることであっても、生き物としての人間としては恥ずべきことなのだ。少なくともぼくは哲学や文化理論をやっているのだから(それらの「専門家」にすぎないと見なされる悲しい現実はあるが)、大工の親方や自動車修理工や経済効果の計算をしたり、アンケートの集計をしたりするだけの社会科学者のような「専門屋」ではありたくないと思っている。この人たちはみんなとても「便利」な人たちだけど、それ以上ではない。あるいは、それぞれの個人は必ず「それ以上」の存在であるはずなのに、そのことを自分たちが忘却しているのである。

 昨日は岩波書店の宣伝誌「図書」のための原稿を書いていた。9月には書店に置かれるので是非読んでいただきたい。今日は、唐ゼミ★が稽古場にしている西新宿の芸能花伝舎を覗いてから、アートンで「巨大バッタの奇蹟」の最終校と表紙デザイン会議をする。明日は大学に顔を出して、明後日からはソウルに出発である。こんな感じらしい。一方唐ゼミの方はこんな感じ

 そうそう、忘れていた。iMacG5が預けてから一週間で戻ってきた。やっぱり強いクレームをつけるとすぐに対応するんじゃないか? それでも三ヶ月近くかかっているけどね。とりあえず、これでようやく元の快適な環境に戻れる。

2005.07.31

アップル社のサポート体制は本当にひどい!

 家のiMac-G5が壊れてからもう三ヶ月近くになる。アップルのカスタマーセンターに電話をしたら、修理をしなくてはならないが部品が到着するまでしばらくかかりますのでお待ち下さいと言われてそのまま二ヶ月放置された。次に電話した時にも同じようなことを言われた。その結果七月末まで引き取り通知も何もなく放置された。どうやら、初期不良というよりもiMac-G5自体が不良製品だったらしい。しかもこれや、これにあるように強硬にねじ込んだ人には優先的に修理が施されているらしい。最近のMacは熱処理がうまく行かないらしく、そのこともあってPowerPCからIntelへの乗り換えの発表があったらしいが、それにしてもアップル社のこうしたユーザーに対する姿勢はひどい。最近いろいろなところでやっているこうした「カスタマーサービスセンター」だが、結局は派遣やバイトに任せっきりのクレーマー処理にすぎず、そこには誰も責任をとれる人間がいないし、それを上に反映させるシステムも存在しない。三回目の電話で確認したところ、毎日の記録簿に個々人の判断で書き込むことと、全体ミーティングで発言すること以外に、ユーザーの要望を上にあげるシステムがないようだった。だとしたら本社に直接ねじ込むしかないではないか。普通の製品だったら、当然製品の回路設計ミスが分かった段階で全回収+新製品に取り替えが当たり前だと思うのだが、やはりパソコンはどんなに売れていても、相変わらずいい加減な商売をしているなあと思う。というよりも、とにかくクレーマー対策で責任を問われないようなユーザー無視の「セキュリティ」対策ばかりに奔走しているということでは、現在の企業全体がそういう流れになっているような気もする。
 ぼくはアップル社製品はMacintosh-plus以来、ずっと使っている。88年くらいにplusは四十万円くらいした。Apple-IIは百万円くらいだったので、とても手が出なかった。それから、実際は百万円以上もするII-ciを特別割り引きの七十万円くらいで買ったりもした。あの頃のMacは高値の花だったが、今は安くなったかわりに信頼性が著しく低下している。デザインにしても安易なものが多く、これでインテルのチップになってしまったら、もはやMacにこだわる必要もなくなるのかもしれない。とにかく営業拡大ばかり考えているあまり、基本的な姿勢が失われてしまっているように思えてならない。
 カスタマーセンターのバイトの女の子の一生懸命の対応で、とりあえず今日修理するマシンのピックアップに来てくれるらしいが、それでも「部品が到着してから順番に交換しますのでお返しするまでにはどれだけかかるかは分かりません」と言うのだから、一体いつになったら戻ってくるか分からない。とりあえず、i-BookG4の小さな画面でずっと仕事をやらざるをえないようだ。

2005.05.17

blogに何を書くか

 ときどきWeb日記を読んでいる卒業生に会って、「お前のところの日記は酒を飲む話ばかりだな」とからかったら、「楽しいことしか書かないようにしようとすると結局そうなっちゃうんですよ」と言い返された。そういえば、ここもこのところ、唐さん関係の話ばかりで、誰かと会ったとか飲んだとかいう話ばかりだ。他に何もなかったわけではないし、書きたいことが他にないわけでもないのだが、この場所に何か書こうとするとそういう話ばかりになる。
 ゼミ生にblogをつけさせている手前、自分も無理してでも書かなくてはと思いつつ、ここに書くっていったいどういうことなのかと未だに考えてしまう。学生達も最初は週二回くらいblogつけるなんて楽勝ですよ!と豪語していたが、やっぱり壁にぶつかって行き詰まっている者が多い。
ひとつには、特定の人にしか向けられていない文体で書かれているものが、不特定多数の人にも読まれてしまうという二重性のようなものが、blogやweb日記の独特の居心地の悪さと、文体の不安定さを作り出しているように思われる(ここもなぜかこのところアクセス数が多いのだ)。この不安定さを乗り越えるためには、1.完全に不特定多数向けの公的な文章にする(論説にしても身の回りのことを書くエッセーにしても、そのまま雑誌や新聞の原稿のつもりで書く。つまり、個人ジャーナリズムのような形)、2.完全に特定の「身内」向けのものにする(友達ネタや身辺雑記のみ。それ以外のオーディエンスは、基本的には電車の中での友達との会話に聞き耳を立てている他人と同じと考えて気にしない)。3.知らない人に覗かれるのは嫌だから、メーリング・リストとかSNSのような、閉ざされ方の程度の違いはあるが、結局のところは鎖国した領域に閉じこもる。というような3つの選択肢が考えられるだろう。
 パソコン通信出身だから3のようなオンライン・コミュニティには馴染みがあるし、それがもたらす効用(人間関係のネットワーク化の広がりがもたらすパワーと楽しさ)も知っている。だが、それと同時にWeb上の言説のもっている、まるで暗闇の中でたった一人でろうそくの光を点けるような、誰がそこにいるのか分からないような不安定な状況にも未だに惹かれている。2チャンネル用語で「釣れる」というのがあるが、確かに何も見えない深い海に釣り糸を落としているようなところがある。ただ、それが継続したコミュニティを作っていけるかというとそうではあるまい。そういう意味ではSNSの動向も気になるが、いまのところ仲良しクラブの域を抜けていないようだ。
 いわゆる「人気blog」というものは、多くの固定読者をもっているわけだから、1のようなスタンスのものだろう。それはPublishingという意味で「個人出版」と変わりがないし、一日数千から数万というようなアクセス数を稼ぐものは確かに一種のマスコミ的な価値をもっている。じゃ、自分はどうかと言うと、そんなことになってしまったらきっと書くのはやめてしまうのではないかと思う。そんなことになったらとっても不自由だと思うのだ。そういうことをずっと書いてきたせいもあるかもしれないが、ぼくはネットワークに「出版」とか「放送」とか「広告」というカテゴリーを持ち込むことには反対である。すべてを「数量」の問題に還元してしまうような産業社会の構造とネットワークの可能性とを分けておきたいと思っている。その意味で、ネットワークはプライベートでもパブリックでもない「パーソナル」なメディアになるべきなのではないかと思っている。ネットは「公的なメディアだ」などというのは、とても息苦しい。
 というわけで、紙のメディアに書く文章と、ここに書く文章とは分けて考えていきたいと思っている。言い換えれば、上にあげたような1〜3のどれにも当てはまらないもの−−一番身近なことを、暗闇の中でまるで自分自身に独り言で語りかけるような、それでいて暗闇の中にリンクしていく釣り糸を投げ入れているような、スタンスが定まらず不安定な語りの「場所」に留まり続けたいと思っている。
そうなるとやっぱり、唐組の公演で誰と飲んだというような話になってしまうんだろうなあ(……と、再び、これでいいんだろうかという悩みのループが始まる)。

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