2014.06.07

ちくま学芸文庫版・R.ローティ『プラグマティズムの帰結』が出ます!

 去年の夏過ぎに、突然筑摩書房の平野さんという編集者から連絡があって、1985年にぼくと吉岡洋、加藤哲弘、浜日出夫、庁茂の五人で翻訳をしたリチャード・ローティの『哲学の脱構築』(御茶の水書房・1985)をちくま学芸文庫から再刊したいという話だった。何か気の遠くなるような感じだった。何せ、30年近く前の仕事である。実際に翻訳作業をした84年と言えば、松田聖子が「Rock’n Rouge」を歌い、中森明菜が「飾りじゃないのよ涙は」、小泉今日子が「ヤマトナデシコ七変化」を歌っていた年である(多分、これでピンとくるのはもうかなりの年齢の人たちだけだ)。さらに翌85年は阪神タイガースの優勝の年で世の中はバブル景気に向かい始めていた時期だ。ただ、83年には浅田彰の『構造と力』をきっかけとしたいわゆる「ニューアカデミズム」ブームがあって、哲学とか思想とかいうものに出版社がまだ大きな期待を寄せていた時代でもあった。1980年に旗揚げをした日本記号学会もまだまだ勢いがあり、その機関誌『記号学研究』に初めて投稿をしたり、美学会の全国大会の研究発表が注目を浴び、ぼくの最初の単行本『文学理論のポリティーク』(勁草書房・1985)を執筆していた頃でもある。とにかく勉強するのが楽しくて仕方なかった時期だ。

 こんな時にぼくたち五人はみんなで一緒にこの長大な哲学書の翻訳に取り掛かっていた。まだみんな30歳前後で大学院を終えたばかりの青二才たちである。室井、吉岡、加藤は京大美学研究室の同窓、浜、庁は阪大社会学の出身で、みんな「人間と言語を考える会」というちょっとダサい名前の研究会のメンバーだった。世の中はまだパソコンどころかワープロすらもまだそんなに普及していない時代。ぼくたちはみんな卒論や修論を万年筆で何回も清書をして書いていたし、新しもの好きのぼくは丸善のカナ・タイプライターや初期のワープロ専用機に手を出してはいたが、基本的にはまだ手書きに原稿用紙の時代だった。ゼロックスコピーはかろうじて普及していた。膨大な量の原稿用紙をみんなで持ち寄り、翻訳の推敲を長時間かけてやった。京都の西山にあるセミナーハウスに合宿し、みんなで大浴場に入り、二段ベッドで一緒に寝たりもした。合宿の費用は出版社が出してくれたので貧乏だったぼくたちは、推敲作業はとても大変だったけど何となく浮かれていた。

 ぼくの京都大学時代の先輩に土居祥治という人が居た。彼は5歳ほど年上で、ちょうど東大の安田講堂事件で東大入試が中止になった年に京大に入学してきた世代である。工学部の土木から文学部の宗教学に学士入学してきた人で、ぼくが大学に入って最初に入った学生サークル「劇団風波」の一番年長の学生だった。香川県出身の彼からすると水戸の高校からやってきたぼくはかなりインパクトのある異物だったらしく、いろいろと面倒を見てもらった。いろんな飲み屋や、東映関係者や、演劇・映画関係者にも紹介してもらった。1974年にはぼくと共同で劇団風波のための戯曲『ムーンライト・セレナーデ』を書いて上演したり、二人で飛鳥や奈良を旅行したり、とにかく彼が在学中にはいろいろお世話になったのだが、流石に歳上なので先に卒業して業界新聞の記者を務めた後、御茶の水書房という出版社の社員になっていた。

 その土居さんから「何か面白い企画はないか」ということで、当時吉岡洋が研究会で報告をしたのをみんなで面白がっていたリチャード・ローティの『哲学と自然の鏡』(日本語訳はその後岩波書店から出ている)を提案したのだった。Img_0563野家啓一さんたちがもう既に翻訳権を抑えていたのでそれは結局実現しなかったのだが、もう一冊同じような本があるという――いまから考えると結構いい加減な理由で――この『プラグマティズムの帰結』という論文集を翻訳することになったのである。このタイトルでは一般受けしないだろうという理由で、当時アメリカや日本で話題になっていたジャック・デリダの「ディコンストラクション」という言葉を入れて邦題は『哲学の脱構築―プラグマティズムの帰結』としたのだった。ハードカバーの大きく重い本で507ページで¥4,600もしたが、それなりに話題になった。

 まさか今頃になって文庫化を考える編集者が居たのには驚いたが、ローティにはまたその頃とは違った文脈で関心が寄せられていたのも事実である。ロールズの正義論やサンデルの政治哲学などとの関連で、ローティの見直しが少し前から起こってはいたのだ。ちくま書房から送られてきた膨大なゲラを前にして少したじろいだが、信州大の哲学出身だと言う編集者の丁寧な校正のお蔭で何とか出版まで漕ぎ着けることができた。Img_0562
共訳者たちも、最初の編集者もほとんど音信不通になっている人たちもいるが、どんな思いでいるのだろうかと思うと感慨深い。当時の自分の文章を読むのは何か不思議な感じだった。今なら絶対にこんな風には書かないだろうと思われる文章ばかりで、いちいち直しているときりがなくなってしまうと思ったので、ほとんど編集者の直してくれた通りにして、余り手を入れなかった。出来上がった文庫本は636ページ、本体価格1,700円。思ったよりコンパクトになっている。

 帯には「哲学〈以後〉の時代にいかにして哲学するか?」というコピーが入り、短いが吉岡洋が新たに「文庫版解説」を書いて、ぼくも「文庫版への追記」を書いた。見本刷りを送ってもらい、こうして手にとってみたり、昔書いた「あとがき」と今回書いた「追記」を交互に目を通しているとやっぱり少し目眩がしてくる。でも、これが新しい読者たちに読まれることを考えると、やっぱり楽しみだ。それがどんなに少数であるとしても、こうして「言葉」を他人に送り込むことができるのはうれしい。こんな奇跡のような企画を進めてくれた平野さんには感謝している。ぼくの「文庫版への追記」は以下のような文章で終わっている。

 「三〇年ぶりに、別々の場所でこの古い原稿と向かい合い、同時期に校正の作業に関わった他の四人の共訳者たちに、遠い時空を越えた挨拶を送りたい。(中略)。書物とは――そして哲学もまた――このようになかなか死なないものでもあるのだ」。

アマゾンのページはこちら!


2009.07.11

新刊『タバコ狩り』平凡社新書

 どうせまた読みもしないで、いろいろな攻撃を受けるのでしょうが、まずは読んでみて下さい。読んでみれば分かります。

 パイプをくわえて下さいと注文されて撮られた写真がかなり悪人面ですが、読売新聞の読書欄に紹介もされました

 この本を書くきっかけとなったのは、いろいろ根も葉もない誹謗中傷の標的となった4年前に書いたこのエッセイ。。元々大学のパンフレットに掲載され、その後日本体育学会の機関誌『体育の科学』に転載される時に改訂版を出し、さらにもう一度ヨーロッパ滞在の印象を書き加えて字句訂正を施したもので、この頃からぼくの主張は何も変わっていません。

 個人的には前半のタバコの話題よりも、第六章と「あとがき」に本当に言いたいことが書かれていますので、そちらを読んでいただきたいと思っています。


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2007.03.05

読書、三題。

 ちょっとだけ休みになって時間が出来たので、気になっていた本を一気に読んでみた。

池谷裕二『進化しすぎた脳』(講談社ブルーバックス)
内田樹『下流志向』(講談社)
仲正昌樹『集中講義・日本の現代思想』(NHKブックス)

 それぞれ面白かったが、
『進化しすぎた脳』では脳科学の最前線を語る若い著者の溌剌とした語り口が何と言っても面白い。

 脳科学から人間を語ることの面白さは、精神分析や構造主義人類学と同じく、我々が自明としている「人間」や「自己」の概念を外部から解き明かしてくれるところにある。著者が言うように脳科学それ自体で「心」を「解明」することは原理的にできない。なぜなら、そこには「(科学的)言語」による脳の理解という限界があるからだ。「理解」とは言語化することにほかならない。それでも、著者はその限界を超えて「心」の謎について問いかけようとする。神経系のメカニズムに関して現在分かっている知見を総動員しての「意識」に関して、また「言葉」に関しての考察は興味深い。著者は「意識」を「表現が選択できる」こととしている。つまりは「自己の意志による自由選択」を、脳における神経系の反射から区別できる「意識」の境界線と捉えようとしているのだ。だが、それは同時に「言語」によって作り出された神経系の複雑なネットワークが組み込まれているはずであり、そして「言語」は脳内にそれ自体として組み込まれているものではない。言語とは常に「他者の言語」であり、他者性に貫かれているものである。してみると、神経系の反射でもなく、「自己」による選択でもないとすると、結局のところ「個別の身体」の中にしか個体性は存在しないとするか、特異な脳=神経ネットワークの組織化における言語のデザインやアレンジの特異性の中に「虚の焦点」としての「自己」を求めることしか出来ないのではないかとも思える。

 たとえば、内田樹の『下流志向』でも、こうした「自己決定・自己責任」という人間主体をめぐる言説が、他者の存在や時間性を捨象した虚構であるとして、そうした無時間的な思考や人間観が、消費資本主義の「等価交換」という原理と結びついたことが、「学ばない子供たち」「働かない若者たち」を生み出していると主張されている。学ぼうとしない子供たちやいわゆるニートの若者たちが、消費資本主義に適応して「合理的」に行動しているだけだという指摘は、一定の説得力があるが、それでは彼らが抱える「不安」や社会構造的な問題は解消されない。だが、ノイズに耳を傾ける時間的なあり方が人間存在にとって重要であるとともに、ノイズをシグナル(意味)に変えていくことが「学ぶ」ことだという主張には共感するし、また内田さんが大学でやれることの限界を超えるために早期退職して町道場を開いてそこで私塾をやりたいという気持ちにも共感できる。ただ、ぼく自身は別に武道をやっているわけでもないし、まだ大学で出来ることがあるのではないかと願っているのではあるが‥‥。いずれにしても、スカッとした読後感をもたらしてくれる書である。内田さんの本の中でもかなりいいのではないだろうか。文部科学省の官僚や中教審の委員、大学の官僚主義的な同僚たちに読ませたいものだ。

 この本の元になった講演がなされたのが2005年の6月であり、その一ヶ月前に日本記号学会の「大学」をめぐる大会で内田さんと議論したことも反映している。こちらは、慶應大学出版会の『溶解する大学』 に収録されている。宣伝ではあるが、こちらも面白い。

 内田さんの主張は分かりやすく説得力があるが、しかしよく考えてみると、現在の状況を説明するモデルとしてはまだ不十分であるようにも思われる。アメリカ流のグローバル資本主義が問題であることはよく分かるが、しかし功利的に動くという点では昔から人はそうだし、功利的な考え方や自己責任自己決定できる主体という虚構こそが「近代的自己」モデルであったことは確かで、そこから「文学」や「近代哲学」が生まれて来たのもまた事実なのだ。また共同体や家族や親密圏からの離脱と孤立が同じように近代的な主体を作り上げて来たことも歴史的事実である。だとすれば、内田的=部分的には室井的・啓蒙的反省的主体もまたそのような流れに内属するものであることは否定できないことのように思われる。また、もしグローバル資本主義に適応することが人間の本性に最終的には反するものであるのなら、なぜ新自由主義的な政策に(明らかにその方が不利な人々をも含む)多数派が雪崩うって同調していくのかが理解できないし、そこに組み込まれることを忌避する「人文的知性」がますます表舞台から追放されて行くことも分からない。もはやここで語られている「学ぶこと」=教養は、ブルデューの「文化資本」的な捉え方をするならば、社会にとって不必要な不良債権のようなものになってしまっているのではないか? それともそれはまた「世界名作アニメ」のような形で消費文化の中に回収されていくものなのだろうか? 人文的知性や、「座」やコーヒーショップ的サロン文化がますます社会から追放されて行くのはなぜか? それはメディアやアメリカに起源を持つ主流派の「権力」の狡猾さによってのみ説明できるものなのだろうか? ただ、学ばない子供や働かない若者たちが彼ら自身の自己決定・自己責任によって生み出されているという指摘、そして人は他者とのコミュニケーションに開かれることによってのみ生きることができるのだという指摘は興味深いし、重要であると思う。無時間的な、あるいは時間すらも空間軸に投影してしまう「歴史の終焉」の時代において忘却されているのは何よりも「生きられる時間」なのだ。

 そういうことを考えながら、仲正昌樹『日本の現代思想』を読むとこれがなかなか面白かった。この著者の本は『なぜ話は通じないのか』(晶文社)から二冊目だが、前著では鬱屈しながら愚痴ばかり言う独身者といった印象しか無かったこの著者が、言説の交通整理に関してはなかなかの才能の持ち主であることがわかった。戦後日本の「近代思想」、「現代思想」の歴史と展開を短くまとめているのであるが、とりわけ戦後マルクス主義思想のまとめ方に関してはなかなか切れ味鋭い。改めて教えられることが多かった。ただ、現在の状況を語る段になると、急速に迫力がなくなるのがご愛嬌かもしれない。「ウヨク/サヨク」の二項対立的言説の氾濫はもう嫌だ、って、確かにその通りだが余りにもそのまんまの愚痴ではないか? 確かに思想や人文的知性を貫き通すことが難しい時代ではあるのである。それでも、そういうことが重要であると信じる人たちは存在しているし、たとえ少数ではあってもそこにこそ人間が作り上げてきた人工的システム(言語、法、哲学、芸術、文学、歴史学etc.)の最良のものがあると考える人たちがいるのだ。いつも考えるのだが、数としては昔からそんなに変わらないのかもしれない。ただ、それが社会全体の中で占める重要度の割合が、話にならない程低下しているだけのことなのだ。ただし、潜在的な才能のある人間がそうした衰えた文化資本に対してあまり欲望をもたなくなっていることは確かで、彼らがより現状において有利なシステム的技能の獲得やテクノクラート化の方に盲目的に傾斜して行くことの方が問題なのかもしれない。こうした情勢の中では、「有機的知識人」とか「ヘゲモニー」とか言ってみたって空しいだけである。

 そう言えば、この間、大久保鷹さんに呼び出されて、中野の小ホールでやっていたマフムード・ダーウィッシュ「壁に描く」の朗読パフォーマンスに行った。若いパレスチナ人の奥さんとの間に生まれた赤ちゃんをあやしていた足立正生さんとも立ち話をしたが、世界革命というテロス(目的)に導かれていたかつての新左翼系の人たちが、現実に「イスラエル」という「敵」からの解放を求める「民衆」とじかに触れ合い、一緒に解放を祈るという立場に移行しているのは確かに幸せなことかもしれない。そうしたグローバル資本主義の外部はいまでも確実に、現実の中に存在しているからだ。

 いずれにしても、ぼくたちが今、この歴史的段階に個体として生きているということは偶然的なことにすぎない。そして、ここにしか生きられないという個としての必然性も確かな事実である。その中でぼくたちが生き物として輝くためには、いま同じ時代を生きている様々な世代の他者たちとどのような関係をもちうるかということの中にしか答えは存在しない。それが限定された狭いサークルや共同体や家族・親密圏だけではないこと、いわゆるグローバル・コミュニケーションの中に開かれていることもそれだけを取ればけっして悪いことではないだろう。ただ、そのことがかつての狭い共同体空間の中では予想も出来なかった新しい困難を引き起こしつつあるということなのではないだろうか? 

2005.12.24

「巨大バッタの奇蹟」「教室を路地に!」の反響

 9月に上梓した二冊の本「巨大バッタの奇蹟」(アートン)「教室を路地に!」(岩波書店)についての反響をまとめてみた。一見したところ毛色の違うこの二冊だが、読んでいただいた方にはお分かりのように「姉妹編」と言ってもいいほど共通している。大学という同じ場所でほぼ同時期に起こったことであり、テーマも同じだ。いろいろな方から個人的に感想をいただいた中で、特に稲賀繁美さん、細川周平さん、西垣通さんからはかなり熱烈な感想をいただいた。ありがたい。以下は西垣さんからの「巨大バッタの奇蹟」にいただいたメールの一部。
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ご本拝受。驚きましたよ。
巨大バッタを造られたという噂は耳にしていたのですが、これほど大きいとは……。まさに日常空間を切り裂く異物ですね。
写真の迫力に仰天しました。ブラボー。とりわけ、白いパンのような半円形の建物に止まっているところを遠くから撮った写真が好きです。
このために心血をそそがれたわけですね。お金もかかったのですね。
普通の人間にできることではありませんよ。感心しました。
これは映画になりますね。結婚式をあげるカップルが「虫はきらい」と抵抗するところなど、誰に演じさせようかと、迷うのであります。
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 また両書とも新聞や雑誌で紹介してもらったが、とりわけうれしかったのは、産經新聞10月5日の朝刊文化面「いしいひさいちの文豪春秋」、「朝日新聞」11/22の読書欄における中条省平氏による書評、「週刊読書人」での堀切直人氏による書評、「週刊ポスト」12/1号での坪内祐三氏による書評などである。またウェブ上ではあるが(紀伊国屋書評空間booklog)紅野謙介さんによる「巨大バッタの奇蹟」の書評や、朝日新聞系有料サイトasparaでの福嶋聡氏の紹介などもありがたかった。
 以下はその他に発見したネット上の書評一覧である。
「巨大バッタの奇蹟」
1.All about Japan Yokohama,田辺紫さんの紹介
2.tociyukiさんのblog
3.kamaeさんのblogその1|その2
4.ラフマニノフさんのblog
5.多摩美術大学、西嶋憲生さんの紹介
6.54notallさんのblog

「教室を路地に!」
1.エキサイト・ブックスの紹介
2.fringe blog
3.frostvalleyさんのblog
4.ラフマニノフさんのblog
5.Sammy's blog
6.吉岡洋による紹介

 まだまだ他にもあるかもしれませんので、見つけたら教えて下さい。

2005.09.10

「ハッカー宣言」

 マッケンジー・ワークの『ハッカー宣言』(マッケンジー・ワーク著、金田智文訳、河出書房新社)についての書評が東京新聞の9月4日号に掲載された。800字の短い分量なので言いたいことをすべて述べることはなかなか難しい。書評は下のようなものである。

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「情報の不当な私有に抗する」

 すべての「ハッカー階級」は連帯せよ! 情報の搾取や囲い込みを打破せよ! と、著者マッケンジー・ワークは挑発する。情報社会における支配階級は「ベクトル階級」(情報誘導階級)と呼ばれ、かつてのイギリスの「囲い込み」で農民から土地を奪い私有することによって莫大な利益を上げた牧羊家たちや、産業革命で利益を独占してきた資本家階級たちに続くものだと彼は主張する。ハッカーとは生産を搾取される「階級」なのだという視点が新しい。
 したがって、ハッカー階級とベクトル階級の対立とは、情報を生産する者と本来共有されるべき情報を不当に「私有」し、情報の生産構造を支配しようとする者との対立である。後者は情報を囲い込むことで不当な利益を得ているマイクロソフト社やホリエモンのような人たち、地球規模の著作権ビジネスを推し進める映画・音楽関係者たちに当たる。
「ハッカー」は、通常不法にコンピュータシステムに侵入してプログラムやデータを書き換えたりする犯罪者と考えられている。だが、それと同時にハッカーはその管理システムのあり方それ自体に疑問を投げかけ、その支配と搾取の構造を暴こうとする「革命家」でもあるのだ。何よりも重要なのは「ハッカー」が情報の書き換えを通して、新しい情報を生産する生産者階級であるということである。その意味で、芸術家、哲学者、思想家、科学者、研究者たちもまた本来は「ハッカー階級」に所属していると言える。だが、そのことはまだそれほど広く自覚されてはいない。だから、この「宣言」は「眠れるハッカーたちよ、目覚めよ」と呼びかけているのである。
 最近ようやくL・レッシグらの著作によって、著作権ビジネスや情報ビジネス、さらにはそれを支える行政の政治的・経済的システムは何だかおかしいのではないかという疑いが共有されるようになってきた。そうした中で、情報社会の問題点を情報生産とその搾取という階級論的な視点を持ち込むことでくっきりと浮かび上がらせた刺激的な書物である。
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 これに付け加えることがあるとしたら、こうである。
 この本は、ドゥルーズ=ガタリ(と言うよりもガタリ)やギィ・ドゥボールら「シチュアシオニスト・インターナショナル」に影響を受けて情報社会における新たな階級闘争の始まりを定義したものだと、「訳者解説」などにも書かれているが、確かにそういう部分が濃厚で、それがこの本の明らかな「短所」である。マルクス主義の新しい土台付けを狙っていたシチュアシオニスムや、グラムシのヘゲモニー論に基づくアウトノミア運動などの理論的支柱を打ち立てようとしていたフェリックス・ガタリの文脈では、現在の情報グローバリズムに抗することなどとてもできないし、カルスタ左派(日本では上野俊哉に代表されるような)的な古くさい戦略で何か新しい立場が生み出せるとはとても思えない。
この本の長所は、むしろ生産する者と生産を搾取し独占私有体制を打ち立てる者との対立として中世から現代までの数百年の歴史を荒っぽくざっくりとまとめてしまうアメリカ的なシンプルさと大らかさにある。要するに牧羊家たちとは、中世の職人たちのギルドを崩壊させ、近代産業社会に移行する基礎を作り上げた人々であるわけだが、それをビル・ゲイツのような情報資本主義の創始者と比較している視点が新鮮で面白いのである。もっとも「牧羊家」という日本語の語感はそれとはほど遠い文字通り牧歌的なイメージだし、「ベクトル階級」という訳語も生硬だ。若い訳者にもうすこし覇気があれば、この本の荒っぽい暴力性を浮き上がらすことができたかもしれないのだが‥‥まあ、「解説」を読む限りではそこまでの見通しは持てないのだろう。
 君もぼくもハッカーなのだ。物を作ったり、観念を作り上げたり、新しい学術的な視点を生み出す人は全員「ハッカー階級」であることを自覚せよ。ものを作らずにそれを操作して、富を私有する人々は悪であり敵なのだ。著作権を守れと法制化を進め、資本のための資本を求める連中こそが真の剽窃者であり、作ってもいない情報を盗み取る犯罪者なのであるとストレートに言う姿勢が新鮮なのである。
確かに、金儲けは卑しいものであるという倫理観を取り戻すことは重要であるし、株式市場で利益を生み出している人たちは「何も生産しておらず」単に、「博打打ちの親玉」(by 西垣通)、「剽窃者」にすぎない。要するに物でも情報でも「新しい物」や「新しい関係性」を作り上げることのできる生産者階級と、それを狡猾に搾取し利用し寄生する「ベクトル階級」のどちらかに立たなければならないし、どんな場合でも「ベクトル階級」になることは「醜い」ことなのだ。反近代主義的な構図は中世を理想化するロマン主義的な匂いが濃厚ではあるが、それは、たとえばL.レッシグのように支配階級の良識の中で著作権の過剰保護に疑問を投げかけるような「穏健」な立場とは明らかに違っている。「万国のハッカー階級」よ、連帯せよ! このように読み解くことで、この強度には満ちているが、議論の深さには欠けている書物を初めて有効利用することができるようになるのではないだろうか。

 本についてもうひとつ。
 韓国に個人的な関心が深まる中、本屋の韓国コーナーに並ぶ本の多さに驚いた。いまや、韓流ドラマ本よりも「反日」デモで揺れた中国・韓国に反発する本の出版の方が目立って来ている。中でもマンガ『嫌(かん)流』というのが売れているらしい(これも現在のブログ界ネタなので「韓」だけ伏せ字にしておく)。要するに小林よしのりの「ゴー宣」と似たような右翼ナショナリスト的な朝鮮人及び韓国政府告発本であると同時に、日本国内の左翼知識人批判であるのだが、韓国人及び韓国政府が囚われている非合理的なトラウマから生まれる日本批判に、日本人が「うんざりしている」という、中国や韓国に対する反感から、それらの反日批判がいかに合理性を欠いた「言いがかり」なのかということを、資料を示して解き明かしていこうとするような本である。ただ、客観性を装いながらも、キャラクターの書き分けで明らかに対立する側を悪人面で描くなどの手法は小林よしのりと同じ。行間にそれこそ非合理的な差別感情(「朝鮮には誇れるべき文化など一つもない」、「在日は勝手に日本に残っただけなのだから、日本の悪口を言うのならさっさと半島に帰れ」「朝鮮高校生いじめやチョゴリが切られた騒ぎは自作自演」etc.)が見え隠れしている。また、大村収容所をはじめとして日本政府側がどれだけ戦後の在日に対して過酷な政策を取ったのかというようなことも隠されていて、どうみても公平な記述とは言えない。要するにこれはこれでまた一つの「偽史」構築の本であり、「ユダヤ人陰謀」本などと同質な「トンデモ本」なのである。
 西尾幹二はじめ「新しい歴史教科書」派の人たちがエッセーを書いているので、明らかに立場が偏ったある種の「運動」本なのであるが、大月隆寛の文章だけは問題意識がきちんとしていて、漫画本文に対する辛辣な批判になっている。「歴史」が「鏡」となるという点は正しいとしても、問題は「誰の」鏡であるかということなのだ。それは近代国民国家が生み出した幻の「国民」の「鏡」だったのであり、だからこそ近代国家は「国民史博物館」や「国民史教育」を進めて来たのである。韓国の歴史教育がひどいと言うが、戦前もっとひどい皇民教育を行い、民族主義的な鏡を強制して暴走して行ったのが過去の日本ではないか。まさしく、ネットでの言い争いのような低いレベルで行われる、韓国(北朝鮮)や中国叩きの大合唱は一体誰の利益になるのかというような想像力に欠けている。言っていることは、ワールドカップ共催の時の韓国チームの悪口から始まっているように、そのいかにも客観的な物言いにカムフラージュされてはいるが、きわめて子供じみていて、たとえば国内での「大阪叩き」や「名古屋叩き」を拡大したようなものであり、「言った、言わない」みたいな合わせ鏡的な論争なのだが、中国と朝鮮半島と日本がいつまでも仲良くなれないことを望んでいるのは、明らかにアメリカ合衆国の世界戦略なのであり、これらのもめ事も半分以上仕組まれたものであるということに考えが及んでいない。それに、本当に中国や朝鮮半島の人々が、過去のトラウマに囚われて非合理な日本叩きの暴走を始めているのだとしたら、それこそ東アジア地域に未来はないではないか? 中国や韓国がいかにひどい国かというような言説は、結局はアメリカやその同盟者たちとの結束を強め、これらの「下の」国々よりも日本を優位に起きたいという、これまた身勝手な論理を強化することにしか向かわないし、その底にあるのは、中国が対米関係で日本よりも優位に立ってしまうのではないかという恐怖感ではないかと思う。要するに、中国・韓国が非合理な感情によって動かされていると言うが、そうしたヒステリックな反応それ自体が日本国内のヒステリックな感情によって突き動かされているのである。それはそうだろう。少子化の進む日本や韓国と比べて、中国がこのまま成長し続ければその巨大さから言ってもとうてい日本にはとても勝ち目はなくなる。「物作りの伝統」とか「ソフトで立ち向かう」とか言われているのは、産業や市場の大きさではとうてい中国には勝てないという意識の現れであり、中国に失敗して欲しいとか、失速して欲しいとかいう身勝手な願望ばかりが暴走しているように思われる。まあ、そうなったらまた鎖国して「国風文化」に閉じこもることになるのだろうか? 
 個人的には巨大な中国が本当に開かれた社会になっていくとしたら(現状は金儲けにばかり走る、中国商人たちばかりが際立っているが)、21世紀以降の世界文明の発展に寄与していくのではないかと思う。どうせ、いまだって欧米の風下に立っているだけなのだから、中国文明圏が真の偉大さを復活させて行くのなら、それは全然悪いことではない。そのためには、揚げ足の取り合いのような不毛な関係をいかに解消して行くかということしかないし、そのためには「国家による教育装置」以外の別のコミュニケーション回路を数多く作り上げて行くことしかないのだ。
 まあ、大きな目で見ればアジア各国に関心が向けられて行くのはいいことだし、そこから誤解が溶けて行くこともあるだろう。あの国はひどいとか、あの民族は馬鹿だとかいうようなことを言う前に、自分自身の足下を見つめよという自省はいつの時代でも一番大切なことではないかと思う。現在の自分の感情や好き嫌いだけを「本音」で語るような薄っぺらい言説の中に自分を同化して、「そうだ、俺たちは正しいんだ」という自己正当化に逃げ込むというのは、「知」を求めることとは正反対の態度なのだと言いたい。

2005.09.03

300ページ近くの結構厚めの本になった

 アートンから『巨大バッタの奇蹟』の見本刷りが送られてきた。正式な発売日が9/15になっているが、12日くらいから書店に並ぶことになる。税込み1470円と安い。帯と中扉が銀紙が使われていて表紙の赤も光沢があり、なんだかぴかぴかとまぶしい。この写真よりもずいぶん派手である。カバーは何度も直してくれたこともあって、とてもスッキリしていていい出来だ。coverそして、カバーを外すと山田さんがこだわってくれた、募金チラシや支援のFAXや新聞記事などが散りばめられたコラージュ。これもとても気に入っている。とにかく、いろいろな人に読んでもらいたいが、バッタの場合に余りにも協力してくれた人が多く、既に献本が100冊を越えていて、このままではその2倍くらい買い取らなくてはならない勢いだ。よほど売れなければ、きっと儲かるどころか赤字になってしまうかもしれない。一応、直接著者売りで8掛け(1200円)でも売れるが、生協で5%引きで買える人はそちらでもお願いしたいし、書店でも買っていただきたい。自分で言うのもなんですが間違いなくいい本です。何度も校正をして万全を尽くしたつもりだったが、一枚口絵を入れ忘れてしまったことに気がついた。それもまあ悪くないが、せっかくなのでここに入れておきます。こんな凄いことが目の前で起こったのだ。batta
www.konchuu.comのウェブもまだ生きていますし、関わった人もそうでない人も是非見ていただきたいと思います。また、この本の中には「劇団唐ゼミ★」のメンバーも沢山出てきます。9/28に発売される岩波書店の『教室を路地に! --横浜国大VS紅テント、2739日』(1785円)と是非合わせてお読みになって下さい。
マッケンジー・ワークの「ハッカー宣言」(河出書房新社)の書評を頼まれて、明日4日東京新聞(中日新聞)の書評欄に掲載されることになっている。前もやったことがあるが、ここは字数が800字なので、さすがに短すぎて言いたいことが尽くせない。少し時間が経ったら長めのものをサイトの方にも載せてみたい。深さにはやや欠けているが、挑発的な問題提起が面白かった。

2005.08.18

リンクしまくり、画像貼りまくり

 「劇団唐ゼミ★」の新国立劇場のチラシが完成した。表がこんな感じ。
DSC06338
昔の紙芝居の絵だが、唐十郎が選んでくれた。群がる敵の頭上に鞭をふるって襲いかかる謎の仮面男と少年のイメージで新国立に立ち向かって行く。今日は午前中にDMや招待の袋詰めをやって、西新宿芸能花伝舍の稽古場へと戻って行った。暑いせいもあるが、みんな寝不足なのか疲れ気味。何とかここを乗り切って欲しい。チラシの裏側には、西堂行人、堀切直人、松本修、皆川知子各氏とぼくのテキストが掲載されている。みんな勿体ないほどのいい文章を書いてくれた。このチラシは唐ゼミ★のDMで送られるほか、新国立オフィスに置かれる以外、あまり外に出回らない。大学内にだいぶバラまいたが、一研の1F,5Fに少し置いておいたので学生は取りにきてほしい。
 そう言えば、このあいだ取材に来た「代ゼミジャーナル」の「研究室紹介」の記事が送られてきた。こんなものも予備校生以外には出回らないものだろうから、ここでもちょっと紹介。大書店の受験生コーナーには置いてあるらしい。
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ついでに、「教室を路地に!」の書籍データがアマゾンに出ている。それから編集の樋口さんが書いてくれた岩波書店の紹介コーナーの文章がこれ
 ついでに、山田真介さんが送ってくれた「巨大バッタの奇蹟」新表紙案のイメージ。実際にはもっとすっきりとシャープなものになる予定だがこんな感じになる。
cover
 両方ともぼくの本としては珍しく2000円を切る予定で、楽しみだ。教科書指定にはしないが(そういうタイプの本ではないが)大学生協にも少し配本してもらえるように連絡をした。
 来週訪れる全州にある全州大学校のパク・ピョンドさんとメールのやり取りで、学部同士の姉妹校協定を結ぶための準備を進める。新宿梁山泊のサイトでは韓国ツアーの中間レポートが出ているが、どうなっているのか楽しみでも心配でもある。いつもここを読んでくれているらしい大塚聡さんたちが今週大邸に行くらしいので、是非、来週の「阿佐ヶ谷日報」で状況を教えていただきたいものだ。大貫誉君の秘密blogはいつもチェックしている。ここここ。「余りバラさないで下さいよ。内輪の愚痴とか書けなくなるじゃないですか?」と言われているので、最後にさりげなく書いておく。

2005.07.05

教室を路地に!

 「煉夢術」のテント公演二日目も無事に終え、日曜日と月曜日は撤収日だった。今週は金曜〜土曜まで、新宿二丁目のサニーサイド・シアターでの公演となる。客席数50と狭いスペースなので、唐ゼミに電話予約をして行っていただきたい。狭い空間での息づかいの伝わるような舞台となって、相当面白くなりそう。
 月曜日には中野と一緒に新宿梁山泊のアトリエ「芝居砦・満天星」に閔栄治氏の主宰する「散打」(Santa)のプライベート・ライブに行ってきた。サムルノリや太平舞などの韓国伝統音楽をベースにしたポップ・バンドである。久しぶりに大久保鷹さんと話し込む。大久保さんはこのblogをずっと読んでいてくれているらしい。新宿梁山泊では七月末から九月にかけての「唐版・風の又三郎」公演の準備中。元々は7月22−24日にソウル公演が予定されていて、そこに唐十郎が特別出演の予定だったのが、この日突然予定変更になった。是非ともソウル公演を観に行きたいと思っていたので残念。いずれにしても一度は韓国に行くことになると思う。
 岩波書店で企画中の本のタイトルが、「教室を路地に!−−横浜国大vs.唐十郎、二七三八日−−」と決まったらしい。ぼくの分の原稿は上がっているので、あとは唐さんとの対談、唐ゼミの座談会などが入る予定である。これも結構面白くなりそう。新国立劇場公演までに間に合えばいいのだが‥‥。
 というわけで、八月末には「バッタ本」、九月末には「唐本」と二冊出版予定です。両方とも内容がつながっている話なので面白くなると思います。それ以外に、十月には「叢書セミオトポス2」の「モバイル・フューチャー−−ケータイの記号論」も出さなくてはならないのだが、これが一番遅れがちでちょっと頑張らなくてはならないところですが。

2005.05.26

内田樹「ためらいの倫理学」を読む

 記号学会以来、何だかここのアクセス数が激増している。やはり「大学人blogの王者」内田樹効果なのだろうか?
 まことに怠慢なことであるが、ぼくは内田樹さんの本をこれまであまりまともに読んだことがなかった。blogを読んでいるのでだいたいのことは分かっているつもりでいたが、今回一緒にセッションをしてみて改めて面白かったので、早速一気に「ためらいの倫理学」(角川文庫)と「先生はえらい」(ちくまプリマー新書)を読んでみた。読んでみて、なぜ内田さんが最近になって急に読まれるようになったか、その理由がよく分かった。
 90年代は思想にとってきわめて不自由な時代だった。それをもたらしたのは80年代における広い意味でのポストモダニズムである。すべてを相対化してしまう「何でもあり」のポストモダニズムに対して、フェミニズムやポストコロニアリズムなどの「政治的な正しさ」を主張する原理主義的イデオロギーが力を持つようになり、それは「従軍慰安婦問題」や「ショアー」論などの「記憶と表象と責任主体」論のような不毛で退屈な論争へと展開していった。カルスタ系の「ディアスポラ」論や国民国家論が沸騰したのも記憶に新しい。ぼく自身はこうした90年代の流れに全くなじむことができなかった。自分でも「マルチカルチュラリズム」についてのセッションをやってみたり、吉見俊哉さんたちが組織した「カルスタ」研究会に参加したりもしたが、全く面白いと思えなかった。その理由は何となく分かっていたものの、まだ少しもやもやしていたのだが、「ためらいの倫理学」を読んで、なるほどそういうことだったのかと、すっきりした思いになった。他方、ジャーナリズムの世界では社会現象を「意味」に回収しようとする社会学系や心理学系の「現場思考」の人々が大量に登場し、映画やロックの「解放的な流れ」を引き出して文化的ヘゲモニーを変革しようとするカルスタ論者も現れたが、結局は経営学者や弁護士や政治評論家のような時事問題について皮相な見解を述べるだけのさらに「現場寄り」の人たちが「知識人」ならぬ「コメンテーター」として生き残った。「現代思想」のような思想雑誌が全く面白くなくなり、それと同時にぼくのところにも原稿の依頼がほとんどこなくなったのもそうした時代状況を反映していると思う(もちろん、お前がつまらないからだと言われればそうなのかもしれないが、ぼくとしてはそうは思っていないのだから、やはりここは時代のせいにしたいところである)(笑)。
 つまり、どこにも「思想」や「批評」の居場所がなくなってしまったのである。なぜ、そうなのかということについては、大澤真幸が一連の著作で明らかにしているように、思想や論理的思考が、「相対主義/原理主義」という相互依存的な「袋小路」の中に閉じ籠められてしまったからだ。この対立を止揚したり、統合したりすることはあらかじめ論理的に禁止されている(大澤によれば、それは超越的な第三者の審級の不在として語られるが、これはこれでまた息苦しい立論の仕方だ)。そのため、一方では一貫した「主体」としてある立場を引き受け、違う立場の人々をことごとく断罪するフェミニズムのような息苦しい言説空間が支配的なものとなり(内田の言う「審問」のディスクール)、他方ではすべてが言語ゲームにすぎないという底なしの相対主義が拡散して、個別的で具体的な問題にプラグマティックに対応していくしかないというシニシズムを拡大させていったのではないだろうか。こうして、ひとは巨大な暴力を前にすると何も語ることができなくなってしまった。何かの組織や立場を共有する人々の中でしか、自由にものを語れなくなってしまった(フェミニズムの内部でどんな発言をしても、それはなんらラディカルではありえないし、どの立場につくかということだけが重要な事柄であるとしたら、知的な自由などは存在するはずがないし、インサイダー取引のような形で株で儲けてしまった人には経済システムの批判はできないし、泥棒が犯罪を告発することはできない‥‥というような形で、人々は「立場」の上でしか思考することができなくなってしまったのである)。
 内田さんの言説はこの「息苦しさ」からぼくたちを解放してくれる陶冶的な効果をもっているように思われる。そもそも、知的な言説というものが何のために必要だったのかをぼくたちは忘れていたのではないだろうか。それは誰かをやりこめるための道具でもなければ、自分を固定した立場や視点に縛り付けるものでもなく、ましてやある社会的なグループの中での自分の相対的な位階を上げるための武器でもなかったはずだ。自己目的的なゲームでもなければ、唯一の「正しさ」に漸近線を描いて接近していく探求などでもない。そうではなく、それは一つの意味や一つの立場にけっして解消されることのない揺らぎやずれや不確定性の中に自らを解き放っていくことによって、自分の立っている地平が変容し、自分自身の固定した世界観からゆるやかに解き放たれることから生まれる「自由」の感覚に結びついていたはずだ。内田さんが「自分が正しいと言い張る知」ではなく「自分が間違っているのではないかと疑う知」の側に立つと言っているのは、こうした「息苦しさ」や「自己正当化」に閉ざされてしまった90年代の思想環境に対するラディカルな異議申し立てになっているのであり、その意味でこうした本来の知の愉悦に満ちたテキストが求められるようになったのではないかと思った。だから、これは確かに「秘密の花園」に住む人文学者にしか書けないような特異なテキストなのである。

 ところで、早速内田樹さんから変な宿題をもらってしまった。

>世の中には「悪童系」というカテゴリーに属する学者がおられる。

>その知性の最良の資源の一部を惜しみなく「人をからかうこと」に投資するタイプの人々である。

>森毅先生とか養老孟司先生とかはおそらくそのタイプの先達である。

>室井先生もなんとなく「ご同類」のような気がしたので、「先生の企画する面白そうなプロジェクトがあったらお声をかけてください」とお願いしておく。

>私はほかにたいした取り柄はないが、「人を怒らせる」ことに関しては人後に落ちない。

>室井先生であればきっとこの「使途不明」の才能の功利的活用の道をお考えくださるような気がする。

 ふむ、いやあそうなのだろうか?  それにしても「人をからかう」タイプと「人を怒らせる」タイプの人間がその才能を「活用」するとなると、それはどんなケースなのだろう?  そこには、からかわれ、怒らされるという最悪の立場の人間が誰か居なければいけないことになる(そうでないとこの二人が才能を発揮できないものね)。となると、それは強大な権力そのものであるか、どんな批判にも動じない原理主義者ということになるよなあ。うーむ、考えても分からないので、とりあえず何か企画がある時には、いつでも内田さんの名前を最初に候補に挙げておくことにしようと、いい加減に決める。

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