2016.10.28

大麻は本当にそんなに悪いものなのか?

 以前、武田邦彦さんが出した『大麻ヒステリー―思考停止になる日本人』(光文社新書)を読んで感心したことがある。武田さんはその後も『早死したくなければ、タバコはやめないほうがいい』(竹書房新書)を出したり、放射能被害に関する誇張についても発言している。そのどれもがとても真っ当な議論だと思うが、マスコミや反対論者の総攻撃を浴びている。

 ぼくの『タバコ狩り』もそうだけど、きちんと読まずに感情的に攻撃してくる人たちの合言葉が「データ」とか「エビデンス」だ。基本的にこういう言葉を楯にして嵩にかかって少数者を排除しようとする人たちは、何を言っても意見を変えようとしない。そしてその背後には必ず誰かの利権が絡んでいるのである。
 
 ぼくは余りナチュラリストやエコロジストは好きではないけれども、鳥取の大麻解禁論者と今回の高樹沙耶さんの事件は警察と厚生労働省の陰謀にしか見えない。マスコミの叩き方も異常だ。誰も大麻そのものを問題にしようとはしない。

 この動画はとてもよくできているが、武田さんの前掲書から付け加えるべき情報としては、精神に何らかの作用(鎮静作用や集中力を高める作用)をもたらす成分を持っている大麻草はインド大麻だけであって、日本などで古来から栽培されている大麻にはそもそもそうした成分は含まれていないということである。

 つまりは栽培用の大麻(さまざまな利用法がある上に、精神作用はもたらさない)と、高樹さんたちが主張している医療用大麻(鎮静・鎮痛作用などがある)の問題は分けて考えなくてはならないし、またすべての大麻が「もっと強力な麻薬の入り口になるから」という乱暴な論理も批判されなくてはならない。

 そんなことを言うのなら医者の処方する抗うつ剤をはじめとする神経間伝達物質を含む薬剤の方が、もっと強力な薬物への導入剤になったり、あるいはどんどん量を増やしていき薬漬けになる危険性が高いはずだ。

 実際に精神科の診療を受けて抗うつ剤を処方された学生が「この薬は一生飲み続けることになるでしょう」と医者に言われたという。こっちの方がもっと問題なのではないだろうか。

 ちなみに70年代までは日本の警察は大麻取締にあまり厳しくなく(覚醒剤がヤクザの収入源になっていたのに比べて、大麻はヒッピーやバックパッカー経由で安価で入ってきていたからだと思う)、何度か経験したことがあるが、集中力が高まり鎮静作用があるのは事実だ。ただ独特の臭がするし、何よりもタバコよりも胃に悪いらしく、何度か腹を下したことがあるので個人的には好きではない。

 取締は徐々に厳しくなり、とりわけ1990年に勝新太郎がパンツに隠していた件で逮捕されてからは、ちょっと尋常ではないくらいに大麻の取締が厳しくなっている。今回の事件はそんなことを考えるいい機会だと思う。

 タバコの件もそうだけど、とにかく「思考停止」にならないためにも。

2016.01.04

2016年のはじまり

長いこと更新をしていなかった。

もっぱらFacebookとTwitterでの発信ばかりになってしまった。

もう一つはずっと契約していたNiftyの有料サービスを全部解約したということも大きい。

光電話サービスも、Cocologの有料サービスもそれに伴って止めた。
そのためにデザイン面とかでできないことが多くなった。無料サービスの範囲でのことしかできない。

NIftyのアカウント自体は残してある。なんと言っても1987年以来ずっと付き合ってきた会社だから縁を完全に切ることは難しい。

これまでマンションの光ケーブルをNTTとNiftyを通して使っていたのを、地元のケーブルTV一本にしたからである。

そう言えば1996年からずっと使ってきたbekkoameのサービスもほとんど使っていないなあ。解約しようかなあ。

2016年という数字を見ても今更何も思わないが、最初にホームページを開設してから20年目である。
そう言えばちょうど十年前の2006年に三ヶ月半だけではあるけれどもヨーロッパを一人で放浪していたことを思い出す。

2回も盗難にあったり、結構大変だったけど、色々な出会いもあり楽しかった。
また、ああいうことをしてみたいけど、体力がいつまで持つのかということもそろそろ少し気になるようになった。

昨年11月にニューヨークに行った。ニューヨークは2001年2月以来で、WTCのツインタワーの見えないニューヨークを訪れるのは初めてだった。

ロウワーマンハッタンのイーストヴィレッジでクシシュトフ・ヴォディチコと会って、今年二人でやろうと思っているプロジェクトの打合せを初めてやったのだが、戦時のワルシャワで生まれた73歳になるこのポーランド出身のアーティストとこんなに仲良くなって、また一緒に仕事をすることになるとは思ってもいなかった。

彼は3月に10日程度、ぼくが招いて来日することになっている。そこから一体何が始まるのか、とても楽しみだ。

今更ではあるが、人生は一期一会の連続である。とりわけ、これだけ年齢を重ねると、昔のさまざまな出来事が縁となって、それから時を経て一見重なりそうになかったことが突然重なりあってくることが多い。
年賀状やFacebookの繋がりを見ていてもそう思う。

12月に出した角川新書『文系学部解体』の評判が良い。もっとも、これから色々な火の粉が降りかかってくることになるのだろうが、ずっと過ごしてきた大学の危機とあってはもう立場とかどうとか言っている場合ではないと思う。

今月末には日本記者クラブで講演をさせてもらうことになっている。社会がどのように受け止めてくれるのか確かめてみたい。それもこれも始まりはこのblogだった。

というわけで、多分これからはFacebookがメインにはなると思いますが、時々はこうしてここに戻ってきたいと思っています。

どうぞ、今年もよろしくお願いします。


2013.08.11

復活するぞ!

 身近だった人の追悼文のようなものを二本書いてから、すっかりここを放置してしまった。
 ここだけ見ている人からすれば、ぼくがあれからずっと落ち込んで何もしていなかったように見えてしまったかもしれないが、そういうことでもない。

 ただ、単純に忙しかったということだけである。何本か文章も書き溜めてあったのだが、いずれも時間がなくて最後まで書き上げることができなかった。あとは、Facebookのような断片的な書き込みの方が圧倒的に楽だったからだが、やはり時々は長めの文章を書いておかないと、頭の中がまとまらなくなってしまう。

 とは言え、今年の春から夏にかけて、これまでになく体調が悪かったことも事実だ。5月に風邪をこじらせて咳が止まらなくなり、喘息の発作からなぜか左後背部の筋肉が痛くなり、一時は左手でものを握ることができなくなってしまった。18年ぶりくらいに病院に行ったり、人生で初めて整体をしてもらったり(ほとんど効果はなかった)、タイ古式マッサージを受けたり(善光寺門前町で突然入ったここはなかなか良かった)、綱島温泉に通ったりしたが、結局完全に症状が消えたのは7月中旬のヨーロッパ旅行中だった。だから、5月から7月までずっと調子が悪かったことになる。こんなのは初めてだ。ここぞとばかり、周囲から「年齢(とし)なんだから気をつけてください」と言われてムカついた。それでも一つも予定をキャンセルすること無くなんとかやり過ごすことができた。

 その間、演劇関係ではまずは横浜国大での野外劇「腰巻きお仙--忘却篇」、劇団唐ゼミ☆の「夜叉綺想」の大学、長野市権堂、浅草花やしきでのテント公演、シアターコクーンでの蜷川版「盲導犬」(プログラムに原稿を書かせてもらった)。それから、全体的にはあまり感心しなかったが、13年ぶりに緑魔子さんが舞台に復帰した渡辺えり「赤い壁の家」も本多劇場に見に行った。唐組の稲荷卓央と大鶴美仁音も頑張っていた。そうそう、唐組の「鉛の兵隊」も望月六郎dogadoag+の番外公演「問わず語り」もあったけど、体調悪く今回は回数は少なかった。リハビリ中の唐さんは「鉛の兵隊」の初日と千秋楽、唐ゼミ☆「夜叉綺想」の初日に舞台挨拶にたったが、とりわけ「鉛の兵隊」の初日は感動的で涙が止まらなくなった。

 去年5回、約30時間近く語り下ろしてもらった大久保鷹さんの口述記録「俳優・大久保鷹という生き方」(仮題)のデータ起こしも進み、11月のKAATでの唐ゼミ☆公演「唐版・滝の白糸」の会場で冊子体で販売するほか、電子ブック版も作成作業を進めている。この中身が面白い。これまでどこでも語られることがなかった状況劇場初期の煮え立つような日々が大久保さん自身の口から余すことなく語られている。期待していて下さい。

 しかし何と言っても今年の春頑張っていたのは、来年の1月と3月に東京と京都で開催予定の複合アートイベントやなぎみわ+唐ゼミ☆「パノラマ」の準備である。これは台東区の旧復興小学校と京都会場(場所未定)で、昨年鳥取と大阪でだけ部分的に上演された演劇作品「パノラマ」をめぐって、劇団唐ゼミ☆、三輪眞弘、吉岡洋・Kosugi+Ando、伊藤高志、稲垣隆士によるユニット「Beacon」らとのコラボレーションによりアートイベントを実施するというプロジェクトだ。横浜都市文化ラボのセミナーとして実施し、何度かこれらのゲストに来て話をしてもらったりした。そのことがあって、台東区には足しげく通った。入谷の町内会の人たちとも親しくなり、浅草の唐ゼミ☆公演の時には何人かお客さんとしてきてくれたりした。これはもう間もなく詳細が発表できる予定である。

 その間、7月18日から29日まではポーランド、クラコフで開催された国際美学会に参加した。日本からの参加者は多く、いろんな人と親交を温めることができたが、何と言っても2年ぶりに合うクシシュトフ・ヴォディチコとの再会はうれしかった。国際美学会の会期に合わせてクラコフの中央広場でWarVeteranVehicleのプロジェクションをやるという企画だったのだが、レセプションからプロジェクションが終わった次の日まで毎日二人で語り合うことができた。横浜のプロジェクションにはいろいろな批判もあり、自分でも反省する点が多いが、クラコフの現代美術館MOCAKが主催した今回のプロジェクションと比べても、日本でのプロジェクションはヴォディチコの人生の中でも特別のものだったと本人の口から伝えられたのもうれしかった。

1016286_10200393804389802_231498887


 もどってきて都市文化ラボでの三輪眞弘さんのレクチャー、オープンキャンパスなどバタバタしながら、かろうじて取れた文化庁の助成金の予算編成や、Beacomチームの会場下見などが続いているが、これからいよいよ「パノラマ」プロジェクトの日々が始まる。暑いけど頑張っていきたい。


2013.02.23

2月23日

 今年になって一度もこのblogを更新していなかったことに気づいた。

 FacebookやTwitterには多少は書いていたけど、何だか書かなくてはならないと思うことが沢山ありすぎてつい敬遠してしまっていたのだ。

 自分が年齢を重ねて行くと当たり前のことだけど、向こう側の世界に旅立ってしまう人も身の回りで当然多くなる。何だか震災の後からこれまでなかったほどの頻度で関わりのあった人たちが亡くなっていったような気がして、そのことに触れなくてはならないと思うと心が重くなるようなこともあったかももしれない。最後のエントリーが12月9日だから、そりゃまあ色々なことがあった。忙しかったしなあ。ももクロも紅白に出ちゃったし、やなぎみわさんとのコラボレーションの仕事は進行中だし、三輪眞弘さんとも一緒にやることで進んでいる、メディア芸術祭の世界メディア芸術コンベンションも終了したし、水戸芸にも行ったし、個人的にウクレレにはまっているし、父母の病気も一段落したし、学生たちの上映会や公演も間近だし、まあいろいろなことがあった。昨日初日をあけた望月六郎さんの率いる劇団ドガドガプラスの新作「浅草紅團」もとても面白い。ちょっと年下だけど同年代でどんどん進化している人を見ていると勇気が出てくる。

 この劇団は演劇経験のないダンサーたちと望月さんが6年前に立ち上げたもの。近代日本文学に題材を求めた重厚な戯曲と、浅草レヴューや軽演劇のような踊りと歌が混じり合っているきわめてオリジナルなスタイルを持っている劇団だ。出演者たちがどんどんと演技の腕を上げていき、そこに個性溢れる男優陣たちも加わってパワフルな舞台を作り出している。今回は、ヒロイン役の中田有紀が女優に生まれ変わった瞬間を見ることができた。2時間半が全く長く感じないほどの力のこもった初日の舞台だった。ので、とりあえず宣伝をしておきたいと思って、久々にblogのことを思い出したのである。

 1月25日に美術家の嶋本昭三さんが亡くなった。85歳だった。同年代を生きている人たちの中で本当に尊敬できる、というよりも明らかに自分よりも能力を超えている存在のうち数少ない一人だった。同じような天才に唐十郎さんが居て、その唐さんが去年の5月に重度の脳挫傷で入院していたことも心に懸かっていた。唐さんはもうだいぶ回復して自宅で療養中だが、それでも元通りになるまでにはまだ時間がかかるだろう。嶋本さんに関してはblogではとても書ききれない程の思いがある。こうした人たちからうけた「借り」のようなものは、とても返しきれるものではないが、それでも何とか少しずつでも返して行きたいと思っている。

 短いがこれだけ。とりあえず、ドガドガ+を宣伝しておこう。学生さんたちも是非見に来るべきだ。特に映画塾の学生は必ず見に来て欲しい。

2012.12.09

10月から12月へ

 前回のエントリーが南京記号学会の途中で書いたものだから、あれから2ヶ月が経過してしまった。それにしても南京中央飯店は変なホテルだったなあ。最終日には中山陵にツアーで行き、また上海まで新幹線。新しい空港のリニアモーターカーにも乗った。時速420kmというのはやはり体験したことのない感覚だった。それからバンドに行き、93年に泊まった上海大廈の勇姿を堪能した。Photo
 別に義務感で書いているわけではないので、それはそれで別にいいのだが、なかなか書くことができなかった一番の理由はやはり父母の入院が続いたことだった。

 父は今年4回入院した。最初は1月、肺がんの放射線治療のため、二度目は5月、肺炎とそのまま大腸がんの手術のため、三度目は8月感染症による発熱、そして10月の検診で大腸がんが転移した肝臓がんで余命半年を宣告され、11月には再び感染症による発熱で入院した。現在は退院して小康状態にあるが、次に何が起こるか予断を許さない状態である。それでもよくもまあ死んでいなかったものだ。我が親ながらなかなかのしぶとさであり、今はまた句集の作成に日々を過ごしている。

 父は88歳になったが、81歳になる母もまた調子悪く、一昨年に入院した時から痛めた腰が悪化し、転んだために胸骨の圧迫骨折で動けず、11月に手術、12月に入ってまた腰の手術をしている。両親ともに入退院を繰り返し慌ただしく年の瀬を迎えている。小金井に住んでいる妹とも久々に頻繁に会う機会が増えた。
 誰しもが経験することだし、周囲を見てももっと大変な状況も考えられるので仕方ないことだと思っているが、それでなくてもいろいろなことで忙しい時にこういうことが重なるとやはり疲れる。

 その上、またしてもいろいろな人が亡くなった。唐さんを通して知り合った若松孝二監督も中村勘三郎さんも亡くなり、フリーの学芸員でいろいろ刺激的な展覧会を仕掛けてきた東谷隆司さんも旅立ち…それぞれの人たちのことを思い出していると、当たり前のことだが自分もまた随分遠くまで歩いてきていると改めて思い知らされる。あまり頭の中は高校生のころと変わっていないのだが、そのままもう40年も過ぎてしまったのだということを認めざるをえない。

 昔、中村雄二郎さんが『現代思想』に「老年」についての往復書簡を始めた時に雄二郎さんは60歳だったと思う。逆に言えばそれまで老化について意識していなかったということだろう。雄二郎さんはその頃はまだ黒々とした髪の毛と髭を持っていて若々しかった。だがこのところは身体を害されて人前には出てこない。山口昌男さんは70歳前後から脳梗塞を繰り返すようになり、72歳の唐さんもまた今年5月に脳挫傷で入院し現在は自宅でリハビリ中である。元気でバリバリ働いている人に病や怪我は突然訪れるものらしいし、ほとんど同じ年齢の勘三郎さんみたいにほとんど睡眠時間を取らずにエネルギッシュに動いている人も突然病魔に襲われるものらしい。一方で90前後になっても元気な人は本当に元気なので、まあ本当に「寿命」というのは一人一人違うものだなあと思う。
 そう言う意味ではあまり頑張らずにのんびりとしていた方が長持ちするのかもしれないが、まあそうものんびりしていられない。

 10月から横浜都市文化ラボのセミナーとワークショップが始まった。毎週金曜日に慶應義塾大学の熊倉敬聰さんにホストをお願いした「現代ART/ACT論」、不定期土曜日の午後に元状況劇場の大久保鷹さんを迎える「俳優大久保鷹とアンダーグラウンドカルチャー」。映画監督望月六郎さんによるワークショップ「熱血映画塾」がそれぞれ絶好調。他に中川克志君の「現代の音楽とテクノロジー」、さらには劇団唐ゼミ☆による「演劇ワークショップ」が始まり、京都大学の吉岡洋さんによる「実存主義のアクチュアリティ」が年末に控えている。それぞれ時期がずれてはいるが、9月の京都精華の集中講義に続いて6講座を同時に運営していくのはなかなか難しい。だが、いずれもその苦労に釣り合うだけの成果を上げていると思う。

 何よりも人との出会いは有り難い。元ダムタイプの小山田徹さんとはほとんど20年ぶりに再会し、お互いにもっていたこだわりのようなものも氷解したように思われる。また、三輪真弘さんともじっくりと話をすることができた。その他にも沢山の魅力的な人たちと出逢えた。足柄アートフェスティバルでは鎌田東二さんと一日を過ごし、世界メディア芸術コンベンションの会議では大澤真幸さんや松岡正剛さんとも久しぶりに仕事をしている。

 11月は劇団唐ゼミ☆公演「吸血姫」。気温が5度という極寒の長野公演では昔の卒業生たちが見に来てくれたし、浅草での二週間にわたる公演にもいろいろな人が駆けつけてくれた。とりわけ2000年と2001年に同じ作品を再演した新宿梁山泊のメンバーや元メンバーの梶村ともみさんや近藤結宥花さんが見に来てくれたのはうれしかった。唐ゼミ☆もようやく男優が育ってきて、椎野裕美子や禿恵をきちんとサポートできるようになってきたことはうれしい。リハビリ中の唐さんもリハーサルに駆けつけてくれてうれしかった。

 そうそう。ひょんなことからマルチでの同僚だった木下長宏さんと一緒に仕事をすることになった。1月25日(金)の午後1:00〜、横浜みなとみらいの「はまぎんホール」ということで、木下さんと「岡倉天心」をテーマにしたシンポジウムをすることになった。木下さんはまだ25歳くらいだったぼくを最初に大学非常勤講師として招いてくれた人だ。その後ぼくがマルチを作る時に横浜にお呼びして、いまでも横浜で土曜日にセミナーを開催している。いまだに「本当の大学」を自力で作ろうとしている人だ。詳しいことが決まったらまた告知をします。

 年末はなかなか忙しい。21日に熊倉さんの最終回、22日はKAAT(神奈川芸術劇場)で大久保鷹さんと足立正生さんのスペシャルトークをやって、23日には大阪でやなぎみわさんの公演に行き、そのまま25日から28日までの吉岡洋さんの集中講義になだれ込みます。その間に足柄アートフェスティバルの打ち上げとか忘年会とかが目白押し。あっという間に2012年が終わろうとしています。

2012.09.17

横浜都市文化ラボの集中講義「都市とポビュラー文化」など

 前のエントリーからもうひと月が過ぎた。あれから、父がまた緊急入院したりして慌ただしく月日が過ぎた。その最中には劇団Dogadoga+の鴬谷・東京キネマ倶楽部での「偽作・不思議の国でありんす」もあり、稽古を含めると3回ほど足を運んだ。打ち上げにも少しだけ顔を出させて頂いた。

 9月3日から7日まで横浜にある野毛Hana*Hanaで、京都精華大学提供の集中講義「都市とポビュラー文化」が始まった。
 これは、北仲スクールの時から京都精華の佐藤守弘さんが中心となって京都精華の大学院共通科目を横浜で開講してくれるというもの。
 去年と同じく、吉村和真さん(マンガ研究)、小松正史さん(サウンドカルチャー論)、安田昌弘さん(ポピュラー音楽社会学)の3人の講師と23人の学生たちがやってきた。
 横浜国大からも20名以上、さらに倉敷芸術科学大学の2人と社会人も加わって連日賑やかな連続講義となった。野毛ということもあって当然毎日が宴会。
 それに加えて、今回は島本浣さんがやってきてくれて、京都精華の学生たちのプレゼンテーションも行った。それもあって、京都と横浜の学生たちが相互に打ち解け合い、これまでよりもぐんと盛り上がった共同授業となったような気がする。20人以上の大宴会も2回もやったし、楽しい日々だった。

 その一方で、期待していた文部科学省の助成金が不採択になるということが決まり、今後の計画を続けて行くことが困難になるという出来事もあった。学内で資金集めに奔走することともなり、自分が何をしたいのか、何を続けて行かなくてはならないのかということを改めて自分に突きつけなければならない事態となった。周囲の人たちの温かい支援の言葉がとても身に滲みた。めげずに突き進んで行きたい。今年の秋から始まる予定はこの通りである。どれもわくわくするような企画だが、大久保さんとの連続講義はすごく楽しみだ。一部のワークショップ科目を除いて、会場は横浜の都心部に場所を借りて行う。「大学が街に飛び出して行く」ことに対して、大学の宣伝や広報、受験生確保などとはちがった意義を理解してくれる人はとても少ないが、これまで掴んだ手応えを支えにこれからも全力で続けて行きたい。

 お金がないからと言って、やりたいことを我慢するのはつまらない。むしろ、どんどんやりたいことに手をつけて行こう...ということもあって、前のエントリーにも書いたやなぎみわさんの演劇プロジェクトと共同事業をやってみたいという思いから、9月15-16日、鳥取市の「鳥の劇場」で行われた新作「PANORAMA」の公演に足を運んだ。「鳥の劇場」に行くのはもちろん初めて、鳥取県に足を運ぶこと自体、人生で二度目にすぎない。新幹線を姫路で乗り換えて、最近開通したという智頭鉄道経由の特急「はくと」に乗ると鳥取市は横浜から5時間。思ったより近くなった。そこからローカル線に乗り換えた「浜村駅」からさらに10km離れた「鹿野」地区に「鳥の劇場」はある。江戸時代亀井氏が鹿野藩を開いた古い城下町だが、今では鉄道駅からも離れた時代から取り残されたような地区だ。そこの小学校跡を劇場施設にしている。台風前のもの凄い暑さもあって、町には人影はほとんどかなったが、開場時間になると約150名ほどの観客が集まってきた。そこには知り合いも多く、来年の愛知トリエンナーレの演劇部門を担当するという「REALTOKYO」の小崎哲哉さん、10月に京阪電車と大阪大学の共同企画をやなぎさんとやる木下千恵子さんたち、京都の遠藤水城君とICCの植田憲司君(二人とも元室井ゼミ)など、みんなやなぎさんと仕事でつながっている人たちが来ていた。ちょっとびっくりしたのは2003年に唐ゼミが大阪公演をした時にお世話になった劇団KIO、そして阿倍野橋ロクソドンタを経営する中立公平さんもいたこと。現在ロクソドンタの運営をしている井上さんという女性がやなぎさんのところの制作を担当しているらしい。公演終了後そのまま演劇祭のオープニングパーティとなったが100人以上が残り、招待されているフランスの劇団員たちも参加して賑やかな会だった。

 次の日は鳥取観光。鳥取砂丘や博物館など見て回り帰宅した。7月の宮城・岩手もそうだが、地方を訪れると近代化とかバブルとかが「本当にそんなものがあったのか」という気分にさせられる。鳥取もまた近代以前の佇まいを強く残した町だった。

 そんなこんなで、もうすぐまた秋学期が始まる。政情も含めて世の中不安定な気分が強まってきているが、こんな時こそ自分の足下をしっかりさせて頑張って行きたい。
 何か、決意表明ばかりの文章だな。中身についてはいままだ書けないことも沢山あるので、またそのうちに。
20120916_103248


2012.08.16

追悼:小川巧記さん

 昼過ぎに大学の横浜文化ラボ事務局でネットニュースを見ていたら、突然以下の様な記事が目に飛び込んできた。

小川巧記さん車にはねられ死亡 横浜開国博プロデュース

 15日午後11時10分ごろ、横浜市緑区長津田1丁目の国道246号で、近くの広告会社役員小川巧記(たくのり)さん(58)が乗用車にはねられ、死亡した。神奈川県警緑署によると、現場は片側2車線の直線道路で、小川さんは横断歩道のない場所を渡っていたという。
 小川さんはイベントプロデューサーとして知られ、2009年に横浜開港150周年を記念して開かれた「開国博Y150」では総合プロデューサーを務めた。05年に愛知県で開かれた「愛・地球博」でも市民参加プロジェクトを担当した。

 思わず自分の目を疑った。

 小川さんは昨日の深夜、自宅付近で自動車にはねられそのまま亡くなってしまったらしい。はねた人が「発見が遅れた…」と言っている記事もあったから、強く頭を打ったにしても、もし治療が少し早かったら命は助かったかもしれないと思うと残念でならない。

 小川さんとは9日前に、一緒に手伝っている「ASHIGARAアートフェスティバル」の打ち合わせと懇親会で、関内で飲んだばかりだったのだ。4月、5月、7月と、4,5回は一緒に飲んでいる。何か、気が合うというか一緒にいるとリラックスできるような気がして(それが小川さんの才能でもあったのだが)、その度に長い時間一緒に飲んだ。年齢も一歳しか違わないし、とても親しくしていただいたのでこんな急な訃報に接して悲しくて仕方ない。

 自分より若い同僚の死や教え子の自殺などつらいことは山ほどあったが、元気だった仕事仲間が突然交通事故で死んでしまうという経験は初めてだ。ぽっかりと心に裂け目ができたようで今夜は何も手がつかない。気持ちの整理をするためにも少しでも関わりがあった人間として、小川さんとの思い出を少し書いてみようと思う。

 小川さんと初めて会ったのは、2008年の5月。水戸芸術館で最後にバッタの地上置きをやった時だったと思う。翌年の「Y150横浜開国博」の総合プロデューサーとして、ADKや実行委員会のメンバーと一緒に見に来て、ベイエリアにナントのラ・マシーンの象を連れてきたいので、もう一つの会場であるヒルサイドエリアにバッタを持ってきたいというような話だった。宴会で少し話しただけだったが、この時の印象はあまりよくなく、要するにバッタのバルーンを人寄せの道具の一つに利用したいだけだろうと思っていた。

 2009年の4月に、ラ・マシーンのパフォーマンスが横浜であった。実際には小川さんが望んだ「象」ではなく、少し不気味な2匹の「蜘蛛」になってしまったが、赤レンガ倉庫前の広場に何日か置かれた後、日曜日に日本大通から新港までのパレードが行われた。この時のことはblogにも書いた。 ものすごい数の見物人たちと一緒に歩いていると、高揚してパレードの後ろを跳ねるようにはしゃいで歩いている小川さんに会った。小川さんに「先生、これからが本当に凄いんですよ。最後まで見て行って下さい」と言われたので、暗くなってから新港埠頭で行われた二匹の蜘蛛の火と水と大規模照明を駆使した大スペクタクルを見ることができたが、それがなかったらパレードだけで帰ってしまっていたかもしれない。この時の小川さんは子供のようにはしゃいでいて、無邪気に飛び回っていた。その笑顔が本当に無邪気でうれしそうだったので、少し好きになってしまった。

 6月の開国博のオーブンまでにも色々なことがあった。小川さんは「愛・地球博」でも、「開国博」でも一貫して「市民創発」という理念を貫き通していた。愛知の博覧会ではメイン会場ではなく、瀬戸会場での市民参加を中心とした会場づくり、開国博でもメインのベイエリアではなく、ズーラシアに隣接した場所が不便なヒルサイド会場の担当だった。だから、小川さんが「開国博の失敗」の責任者というのは大きな間違いである。ベイエリアを担当した博報堂の企画が転々と変わり、責任者がいなくなった穴埋めとして途中から総合プロデューサーを押しつけられたというのが本当のところである。ヒルサイドはADKが担当しており、本来はそれほど集客を期待されていない別会場で市民創発の実験を好きなようにやりたかっただけなのに、ベイエリアを含めた開国博全体の責任まで押し付けられてしまった。その結果、まともなコンテンツがほとんどない有料会場の不振の責任まで押し付けられることになってしまったのだ。その上、会期途中で最終責任者である中田市長が突然辞職し、逃亡してしまうということもあって、本人は裏では「逃げ遅れた」といつもこぼしていた。それでも、そんなことを表に出すことは一切なく、毎日両方の会場を行き来しながら、何とか盛り上げようと不眠不休で頑張っていた。会場でよく顔を合わせて挨拶をする以外にも、一度ADKのKさんと三人(途中からTさんも参加して四人?)で中山駅付近の飲み屋でじっくり腰を据えて飲んだことがある。この晩のことも忘れられない。最初の印象と違って、徹底的に誠意をもって人と接する方で、終わった後の大変な時期にもバッタチームとの野毛での打ち上げにつきあってくれたり、浅草まで唐ゼミ☆を見に来てくれたりしてくれた。

 小川さんは大学を卒業してからテレビの制作会社で働いて、そのあと独立して広告・イベント会社を経営。80年代後半からは博覧会や地域振興などのプロジェクトを続けてきた。野毛の「萬里」で飲んだ時に小川さんから聞いた話が忘れられない。小川さんは高校時代にベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)に共鳴し、反戦の脱走アメリカ兵のサポートなどの活動をしてきたことがある。その頃から市民が自分たちの暮らしや社会に主体的に関わるのが本当の民主主義社会だという思いをもち続けてきた。だから、小川さんがずっと取り組んできたのは、上からのコンテンツを押し付ける博覧会や地域イベントの中に、住民や市民自身による文化創発を取り込んで行くことによって、最終的には自発的な市民が主導権を握って行くような社会の実現である。とても理想主義的ではあるのだが、愛知や横浜でうまくいくことも少しはあったが、ほとんどが失敗の市民創発イベントを粘り強く続けてきたのには、そんな理由があったということを初めて知った。今回、一緒に関わっている「ASHIGARAアートフェスティバル」でも、そうした小川さんの理念が貫かれている。行政主導の「アートフェスティバル」という一種の「ブーム」に乗っているが、目指しているものはそれとは全く違う住民主導の市民創発イベントなのである。2月に突然小川さんから電話がかかってきてから、4月に会場の下見、7月にキックオフ・イベント、そして5月と先週の全体会議と懇親会と、小川さんと何度も一緒になり、酒を酌み交わした。とても楽しい経験だった。ただ、先週の会の時には、仕事で疲れているのか、宴席でずっと居眠りをしているのが気になったが、地下鉄の駅で別れる時には元気に手を振って見送ってくれた。それがまさか最後の別れになるとは全く思ってもみなかった。

 足柄では既に唐ゼミ☆の公演が決まっているが、11月のフェスティバル中には、これとは別に小川さんと一緒にシンポジウムをやりましょうという話が出ていた。これがもうできなくなってしまったことがとても悲しい。4月の下見の日の帰りに、横浜橋商店街の韓国料理屋で飲んだ後、大通り公園そばのクラシックなバーで飲みながら足柄のコンセプトについて話し合ったり、南足柄の大雄山駅ビルの居酒屋でみんなで飲んだりした日のことも昨日のように思い出される。ご家族のことや、会社の他の仕事のことなどほとんど話を聞いたことはなかったが、博覧会やさまざまなイベントを通して、小川さんに感化されたり、影響を受けたりした人たちは沢山いるはずだ。こんなに若く、こんなに仕事盛りの時期に突然交通事故で死んでしまうなんて、とても残念なことだ。

 この動画には最後の方に小川さんの元気な姿が映っている。 ベイエリアの「はじまりの森」で、バッタと蜘蛛が対面した時の映像だ。この日、朝6:00という早朝にもかかわらず、実現に尽力してくれた小川さんは実にうれしそうな顔をして参加してくれた。そして、ぼくの逆サイド(右)に居るのが、当時横浜市のY150・創造都市事業本部長だった故・川口良一さんである。川口さんもまた、市長が逃亡してしまった後の開国博の行政における最高責任者として、裁判をはじめとするゴタゴタに巻き込まれて病気になり、数ヶ月後に亡くなってしまった。川口さんにもとてもお世話になった。二人とも志をけっして曲げない頑固で素敵な人たちだった。そんな人たちがこの世界からこんなにも早く消えて行くのはとても不条理なことのように思えるが、しかしそれが現実なのだ。

 思いつくままに書いて、少し気持ちの整理ができたように思う。小川さん、突然目の前から消えてしまうなんてさみしいよ。

 心から、ご冥福をお祈りいたします。小川さんと会うことができてとても感謝をしています。ありがとうございました。

2012.05.20

記号学会、劇団唐組とかいろいろ

 5月12日と13日の両日、神戸のファッション美術館で日本記号学会の第32回大会「着る、纏う、装う/脱ぐ」が開催された。日本記号学会は1980年に設立され、ぼくは1983年からずっと参加している学会である(もうそれから30年近く経過していると考えると感慨深い)。初代会長はヤコブソンの紹介者としても知られる言語学者の川本茂雄、それから伊藤俊太郎、坂本百大、久米博、森常治、山口昌男らが会長を務め、2001年から2006年まではぼく、続いて菅野盾樹、吉岡洋が会長を引き継いでいる。初期の賑やかさもほんの一瞬のことで、記号論ブームも去ってから久しく、既に90年代からどうやって学会を維持しようかということばかり考えなくてはならなかった零細学会だが、このところ大会はとても面白い。創設以来、「記号学研究」(北斗出版、東海大学出版会)「叢書・セミオトポス」(慶應大学出版会から新曜社)と、年刊の学会誌を出版社に委託して書店売りのできるような形で頑張ってきたが、その売り上げもあまり芳しくなく、よくここまで潰れずにきたものだが、最近は何よりも若手のメンバーや学会員が増えたことでぐっと魅力的な学会になってきている。いま日本で一番面白い(とまで言うと言い過ぎだが、面白くなりそうな潜在的可能性を秘めた)学会なのではないだろうか?
 今回の大会は『闘う衣服』という著書がある小野原教子さんが実行委員長となり単なるモードやファッションの話ではなく、「着る」こと、そして「脱ぐ」ことの根源にまで掘り下げようとした企画で、多彩なゲストを交えた各セッションが面白かった。時間配分やまとめが弱いなどの欠点は多々あったものの、「衣服」を、「環境」や「都市」や「国家」にまで広げて、まさしく一枚の大きな布を広げて世界と自分との間を纏いこむものとして捉えようとした大胆な企画であり、1日目の夕方に行われた西沢みゆきさんの「新聞女」パフォーマンスが、世界各地の新聞紙や新聞広告をその場で即興で衣服にしていくように、情報やメディアや都市そのものをも「着ること/脱ぐこと」(アタッチメントとデタッチメント)として見ていく視点の豊さが感慨深かった。若手の女性研究者たちもそれぞれ元気で面白く、今後の活躍を期待したい。一泊二日だけの短い神戸滞在だったが、学会が終わった後、近くのファミレスでも話が盛り上がり、危うく最終の新幹線に乗り遅れるところだった。
 5月19日には、新宿花園神社で公演中の紅テント、劇団唐組の第49回公演「海星」へ。実は、5月6日のあの竜巻と雹が降った大荒れの日、水戸芸術館での同公演にも日帰りで行ってきた。唐さんは昨年春の「ひやりん児」、秋の「西陽荘」、そしてこの「海星」と新作3本を続けて上演しているばかりでなく、新宿梁山泊に「紙芝居」、そして劇団唐ゼミ☆に「木馬の鼻」を提供しており、もの凄い創作意欲だ。その上、今年の秋に上演する新作も現在執筆中だと言う。そして、今回のこの「海星」はまた特に面白い。墨田区を舞台にスカイツリーと地の底、水底に取り憑かれた人々の対立を軸に、予想もつかないイメージの跳躍が矢継ぎ早に繰り出されていくスラップスティック喜劇であり、1時間半の上演時間は濃密でとても長く感じられる。1〜2月のシアターコクーンでの「下谷万年町物語」効果か、久しぶりにテントは連日大入り満員。是非、この作品は見て欲しい(そう言えば、うちの一年生の授業でも話したのに、見たところほとんど来ている学生はいなかったな。勿体ない)。
 それ以外にも5月8日には大学に水戸芸術館の主任学芸員・高橋瑞木さんに来て頂いて貴重なお話をうかがったりもした。高橋さんの最近の旺盛な活動には目を見張ることが多く、12月の高嶺格展に向けての意気込みも聞くことができて楽しかった。この展覧会は是非伺いたいと思う。

2012.04.30

ネットと監視社会について

 前のエントリーを書いた後、一時は1日5000アクセスとかあって、炎上するのではないかと思ったが、どうやら3日位ですっかり収まった。Googleのような検索エンジンとblogベースのネット内コミュニケーションのあり方が急速に変化していてTwitterやFacebookのタイムラインをベースに、はてなブックマークやまとめ系サイトで拡散するというのが最近の傾向らしい。タイムラインは刻々と変化していく。2日前、3日前の出来事はどんどん下の方にスクロールしていくのでほとぼりが醒めるのも早くなっているのかもしれない。ますますコミュニケーションの分裂症化(「統合失調症化」?)が進行しているようだ。

 ちょっと前には、○や★などを入れるだけで検索エンジンから簡単に逃れることができたのに、最近は全く効き目がないこともよーく分かった。Twitterは日本語が苦手だと思っていたのももはや過去の話のようだ。ハードウェアの進化がこのところ鈍く、3年前、4年前のシステムを変える気になれなかったのだが、ソフトの方は見えないところで進化していたわけだ。

 前に、中国人の留学生に中国でのネット規制の話を聞いたことがある。フランス系のスーパーマーケットや日本政府の批判でネットが炎上した時に、当局の検閲を避けるために、中国では匿名に加えて符牒や伏せ字がよく使われたと言う話だ。その話を聞いた時にも思ったが、当局はそれが見つけられないのではなくて、むしろ外交手法のひとつとして伏せ字による炎上を政治的に利用しているだけであり、本当に政府にとって危険なものに関しては容赦なく弾圧を加えていただろう。問題なのは、ネットを使ってのあらゆる事柄に関する検閲がさまざまなボーダーを超えて可能になってきているということだ。たとえば、こんなことをぼくが書いているというだけで、将来突然中国の空港で入国拒否される事態も考えられなくはない。

 昔、翻訳したマーク・ポスターの『情報様式論』では、スーパーパノプティコン社会(超-監視社会)の到来が予告されていた。ただ、ここから逃れることは今のところは簡単である。それはネットから離れることとネットに近づかないことだ。あるいはネット以外のコミュティを沢山作っていくことだ。だが、監視カメラをどこにでも設置しようとか、ユビキタス環境を町中に展開しようとする勢力は、こうした逃げ道すら完全に塞いで、管理社会化をむしろ促進しようとしている。

 とても不思議なのは、こうした一元的な管理や支配を人々がむしろ求めているように見えることである。ネットのことばかりではない。盛り場やマンションなどへの監視カメラの導入は、住民自身がむしろ希望するようになってきている。2005年に施行された個人情報保護法は、審議中にはマスコミをはじめさまざまな反対意見があったにもかかわらず、いったん施行されると、それを守らない個人に対する集中攻撃が激化するようになった。大学や職場などでの名簿作りが事実上不可能になり、電話帳も無意味になり、メールアドレスや携帯番号の漏洩がマスコミから非難される。レポートを自宅にもって帰るのは禁止、学生名簿などが盗難に遭うとそれも大げさに非難される。スパムメールの増大とか、営業目的の電話による迷惑だとかいろいろ言われるけれども、名簿がないという不便さの方がどう考えても大きい。銀行カードやクレジットカードの番号だとか、パスワードとかに関しては分からなくもないが(しかし、パスワードを三ヶ月おきに変えなくては使えなくなる大学の情報セキュリティ政策は本当に鬱陶しい)、何で試験の答案や成績までが漏洩してはならない「個人情報」なのかがさっぱり分からない。しかもそれが「漏洩」した時のマスコミの大げさなバッシングに関してはもはや狂気の沙汰としか思えない。

 分かるのは、とにかく人々が何か自分が理不尽な攻撃の的になるのではないかと過剰に怖れていること。役所や銀行やクレジット会社以外に自分の電話番号や住所を教えたくないこと。そして、その不安を取り除くためなら監視カメラだろうが当局による24時間監視だろうが何だろうが喜んで受け入れるということである(近い将来、監視カメラの映像データは恒久的に残されるようになり、子供時代の万引きなどの情報までもが個人調査に加えられることになるだろう。「時効の廃止」の動きはこうしたことも含んでいる)。こうして世界はスーパーパノプティコンへとまっしぐらに向かっているのだ。一種の強迫神経症だとしか思えない。だとすると、ここに隙間を何とかして切り開くということがどうしても必要であるように思われる。少なくともぼくにとって、芸術や哲学がまさしく本当に重要なものとなってきているのはそのためだ。システムに裂け目を与える行為は、通常テロとかハッキングとか呼ばれる。しかしすべてのシステムは本質的に脆弱なものなのであり、そこに全面的に依存してしまってはならないのだ。「セキュリティ社会」は、それが完成されれば完成されるほどよりその危険性を増していくのである。

 アクセス数が伸びたことから何で上のようなことを考えたのかというと、考えようによっては、ネット検索を用いて自分の気に入らないことにクレームをつけたり、炎上に群がる人々の行動もまた、実はその動機においてはこのような反システム的な衝動と結びついているのではないかと思うからだ。つまり、ネットでそのような活動をすることは、少なくとも「パッシブ」なシステム受容ではなく「アクティブ」な行動であることは間違いがないと思うからである。しかし、少し前から新聞以外の「マスコミ」がこのような「ネット炎上」を取り上げるようになってからは事情が変わってきている。そのことを理由に責任者が処分されたり、役職を解かれたりする事例が増えるたびに、匿名によるバッシングが社会的な効力を持つようになってきた。たとえば、原発推進を唱える大学教授がネットでバッシングを浴びたり、ひどい場合には「大学に処分を求める」というような動きまでつながりかねない。つまり、それは逆方向の検閲社会、密告による検閲社会へとつながっているように思われる。会社などではTwitterやFacebookの書き込みをモニタリングする部署まで置くようになってきている。

 言いたいことは、匿名での暴力を行使する不健全で卑怯な「自由」に人々が取り憑かれているのではないかということだ。さらにはその「自由」は実は幻想にすぎないのではないかということだ。Twitterでの発言で注意をしなくてはならないのは、キーワード検索で火祭りにするターゲットを毎日探している連中がそこには生息しているということである。さらにたちの悪いことに、自分たちの評判をチェックしている会社や行政組織の担当者までがそこにいる。SNSやblogなどのサービスに参加している人々は実は本当に「匿名」ではない。事件が起これば警察は容易に身元を確認することができる。そのうちに、勤務時間中のツイートを罰する規定が生まれるかもしれない。ネットはけっして「自由空間」ではないし、そこにはますます現実世界の規制が入り込んできている。著作権侵害に関しては、そのうち違法アップロードは削除されるだけではなく、投稿者の逮捕につながっていくことだろうし、ダウンロードに罰則が設けられることも十分にありうる。だとすると、本当は匿名ではない「匿名」のもたらしていた自由や全能感は、比較的近い将来に完全に消滅していくべき運命にあるように思われる。残るのは全員の全員による監視と検閲ということになる。そうならないようにするにはどうしたらいいかということが大切なのだ。

# ところで前の記事には見えるところ、見えないところからいろいろな反響をもらった。「はてな」系が相変わらず邪悪であるとか、2ch.系がほとんどスルーだったのは意外とか、いろいろ考えるところはあるが、一番意外だったのはネガティブで攻撃的な反応が絶対数としては思ったよりもずっと少なかったことだ。「俺たちの好きなものに変なレッテルを貼るな」とか「こんなナルシスティックで小難しい考察よりも夏菜子の太ももについて語る方がましだ」というようなのも勿論あることはあったが、それでも思ったよりは少なかった。基本的にはももクロに好意的なエントリーだったからかもしれない(ということは彼女たちはまだまだファンの数を広げていき、その反時代性が薄められて行くのかもしれないが)。

2012.04.02

いかん、もう4月だ。

 前回にDogaDoga+のことを書いたのが2月だから、1月1回のペースが既に崩れている。

 2月、3月は北仲スクールの最後の締めくくりで、望月さんの映画ワークショップ、久保井さんによる演劇ワークショップ(『夜壺』)、ヴォディチコ・イベントの報告書作成等々、いつもの年度末に増して慌ただしかった。3月14日には北仲スクールを会場にして第一期事業終了のシンポジウム。平日の昼間というのに100人近い人たちが集まってくれて賑やかだった。とりわけ京都精華からは6人も来てくれて、二次会でもご一緒できて楽しかった。そのあとは、ひたすら引っ越しの作業。それも26日にはほぼ完了して、とりあえずは横浜国大の仮事務所に移動が終了した。おかげさまで、北仲の活動は文科省でも学内でも評判はよく、だいぶ緊縮した形ではあるが、これからも活動を続けて行けることになった。また、助成金を目指すことも含めて、貧乏バージョンと裕福バージョンの二つの形を見据えながら、しぶとく今年も何かを仕掛けて行きたい。

 こういうのはともすると、目的と手段とを取り違えてしまう危険性が高い。助成金が切れて、場所と人材を失うのは確かに手痛いことではあるが、それでも元々自分が何をしたかったかを確認して、原点に戻って本当にやってみたいことだけに専念できるのは、ある意味でありがたいことだとも言える。夏頃からの活動再開に向けて、あれもしたい、これもしたいと考えているのは楽しい。そうだよ。基本的には自分がやりたいことをやるためのことだったのだから、そこのところさえブレていなければ何も落ち込むことはない。

 とは言え、どんどん自分の時間を奪われて行ってしまうことも事実で、今年からは人間文化課程の課程長もやらなくてはならず、個人的には一番苦手な「最大多数の最大利益を考え」なければならない立場になってしまった。今週も新学期なので毎日ほとんど会議やガイダンスに顔を出さなくてはならない。やらなくてはならないことが山積みだが、それでも今年は開花が遅くなりそうな桜の蕾が膨らんで空気が温んでくる春には何か新鮮な気持ちになれる。

 その間、茨城県の羽黒に高校の同級生が開いた喫茶店に遊びに行ったり、開港博の時にお世話になった人たちに誘われて足柄に行ったりと楽しいこともあった。できの悪い学生を何とか卒業させることができたり、長いこと学部運営に関わってくれた先輩たちの退職記念パーティも無事に終えることができた。ああ、そうそう。吉岡洋が座長を勤めたメディア芸術祭の国際会議もなかなか楽しかった。姪の結婚式も、結婚式というものに滅多にでないので新鮮だった。

 唐ゼミは、唐さんが初めて書いてくれた新作『木馬の鼻』の稽古に入っている。

 blogに書こうとしている別の文章も、ちょっと時間がかかっているが近々アップできるだろう。新しい授業も始まる。
 それにしても、こうして一年経ってみると、去年の大震災は本当に凄い出来事だったと改めて思う。それなのに、橋下とか小泉とか、未だに古い新自由主義と市場原理主義に人気が集まる状況には薄ら寒いものを感じる。今はむしろメガ地震や放射能汚染に対する行きどころのない神経症的な恐怖感の方が時代の雰囲気を一番表しているのかもしれない。

 けれども時代は常に悪いものだと思っていれば、そうしたことも何てこともない。体力と気力が続く限り、いつだってこの先に行くことはできるのだ。
 おかげさまで身体も元気だし、まだまだ行ける。今年もやるから、みんな期待していてくれ。

 では。

最近のトラックバック

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30