2015.05.24

日本記号学会第35回大会「美少女の記号論」終了

突然blogを再開する。
大学のことは諸事情もあり、しばらく書かない(書けない? いや、そんなことはない)。

5月16日と17日の二日間、秋田公立美術大学で第35回日本記号学会大会「美少女の記号論」が開催された。
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たまたま去年秋田を訪れた時に、「あきたこまち」をはじめとするあらゆる秋田の名産品のパッケージに萌え系のアニメ画風美少女が溢れていることに衝撃を受けて、「なぜ美少女なのか?」「なぜ人は美少女に救済を求めるのか?」「美少女とはどのような記号なのか?」というような問を立てることから、この企画が始まった。もちろん「秋田美人」というイメージもあるが、いずれにしても人を集めることが難しいこの土地での集客狙いのコンセプトであり、それほど深い意味があったわけではない。Photo

ただ、元々日本では少女や幼女に対するファンタジーが強く、手塚治虫や宮﨑駿のような少女志向の文化的傾向が強いのだが、それでもこの10年間のように、同じコスチュームを着た美少女アイドルに中高生だけでなく、社会人の男が群がるのは異常事態と言ってもいいと感じてはいた。記号学会ではいろいろな議論が出たが、ぼくなりにまとめたり、考えたりしたことを列挙すれば以下のようなことになる。

・美少女は実在しない。

・美少女とは構造的に与えられる役割であって、その意味では誰でも美少女になれる。

・性的に宙吊りにされた観念としての美少女は救済のイメージと結びついている。

・そのため「萌え要素」のような紋切り型やクリシェが安易に用いられるが、それらは美少女の本質的要素ではない。

・その意味で美少女はいわゆる「データベース型消費」とは何の関係もない。

・そもそも美少女は市場における消費の対象ではない。

・そのことを隠蔽するために「グッズ」という役に立たないガラクタが交換される。グッズとは贈与経済に属するもので、グッズに市場での交換価値は存在しない。そこで行われているのは象徴交換の儀式である。

・美少女が救済のイメージにつながるのは、それがあらゆる経済連関や政治的文脈から切り離されている「宙吊り」の不安定な表象だからだ。それが不安定な十代の少女の身体によって、「演技」や「技術」ではなく、全力で「実在」に近づこうとしていく意志によって、美少女の表象は一種のイコンとして機能し、崇拝や献身の対象になるのではないか?

・もちろんAKBのような軍隊型、ももクロのような戦隊型、きゃりーぱみゅぱみゅのような男を必要としない自足型、BabyMetalのような企画物型のようなさまざまなヴァリエーションがあるし、単にピンクでふわふわした衣装をまとって笑顔を振りまいているだけの無数の凡庸な美少女アイドルが氾濫している。

・美少女のイメージ造形は男性のプロデューサーの妄想によってまるでプラモデルを組み立てるように作られる。受容者はこのプロデューサーが自分たちの欲望を引き出してくれていることに対して自覚的であり、「運営」側とのインタラクションを重視している。メカと美少女はどちらも工作物であるという点において共通しており、その工作物としての完成度を競うことが出来る。

・少女たちがなぜそれを自ら進んで受け入れようとするのか? なぜそうした男性の妄想の押し付けから自由になろうとしないのか?

・それはいまや、女性たちばかりでなくすべての世代を含めた男性までもが自分も「美少女になりたい」と欲望しているからなのではないか? ヲタ芸をするアイドルのおっかけたちは、アイドルのライブと一体化することを求めており、最終的にはメンバーと同一化することを欲望している。

・こうした「美少女願望」が社会に蔓延しているために、もはや男子中高生のみならず家庭を持つ成人男性たちや女性たちにまでアイドル文化が浸透しているのではないか? そして、本来は市場経済とは関係のない美少女表象が、資本によって経済に組み込まれ、いわば市場経済の潤滑油のような働きをしているのではないか? そういう意味では、やはりあんまり健康なことではないのだろうな。

こんなようなことを思った。

ところで、この学会でぼくが担当したのが、クロージング・セッションで秋田のご当地アイドル(地元アイドル=ジモドル=ロコドル)pramoのミニライブを含む「美少女vs記号学会」という、アイドルと学会のコラボという無茶振りの企画であった。全体を3つのコーナーに分け、最初の30分が黒板前でのpramoのミニライブ、第二部がpramoメンバー一期生3人と仕掛け人の浅野社長とのトーク、最後が学会員によるディスカッションという構成になった。その後玄関付近での物販とpramoによるファンとの交流もあった。メンバーとのトークに関しては、もう少しやっておきたい点が残ったものの、全体としてはまあまあ無事に終了し、ほっとした。

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このpramoの子たちが素晴らしかった。一期生の子たちは2011年からもう足掛け5年活動をしているのだが、ピュアで真剣で礼儀正しい(もちろん、それが彼女たちの「素」だと素直に思っているわけではないが、少なくとも処世術とか営業の戦術とかいうことではなくて、真剣に彼女たちが「アイドル」と一体化しようとしているというようなことだと思う)。終わった後にも早速公式ホームベージでの活動報告が掲載され、トークショーに出てもらったメンバーのせれんちゃん、こむぎちゃん、まゆちゃんもblogで文章を書いてくれた。それぞれ素直に感想を書いてくれてとてもうれしい。高校生くらいの女の子からこういうようなまっすぐな言葉をもらうのは新鮮な感じだ。6月6日に東京に出てきてライブをやるらしいけど、学生たちを連れて応援しに行きたくなった。

こういうのは、周りの大人達がしっかりしていて、ちゃんとしているからこそのことだと思う。事前にpramoについてはいろいろ調べてはいたのだけど、終わった後もずっと見て行きたくなる。

少女たちがこういうことに本気で向かい合うと凄い力になる。リーダーのせれんちゃんは高3なので今年で引退するということを決められていて、その一年間という定められた期間を全力でやりきろうとしているのがよく分かる。確かに、高校で部活に賭けている(高校野球とかバレーボールとか)子たちのもっている不思議な迫力と真剣さにも似ているのかもしれない。甲子園に出られるのも、またその中でプロ野球や大学に誘われたりするのもほんの一部で、大半の子はこれをやれるのは一年か二・三年の短い期間だけだということが分かっていて、まるで二週間で死んでしまうセミのように自分の持っている以上の力をそこにつぎ込もうとする。基本的に少女アイドルというものは少女じゃなくなれば終わるのだから、時間とともに成熟することはなく、少女時代の不安定な心と肉体のままで時間が止まったような瞬間=永遠の中でしか成り立たない幻影である。ゲーテが「時間よ止まれ、君は美しい」と書いたように、永遠と瞬間が重なり合う中に「救済」の幻影が浮かび上がってくるのが、少女アイドルの魅力であり、それは夏の線香花火のように儚い一瞬の幻だ。もちろん大半のアイドルは紋切り型と凡庸なクリシェで安易に作られていてとても安っぽい感じがするものであるが、pramoは違った。

こういう話をすると、すぐに「先生、すっかりはまっていますね」とからかい気味に言われる。前に「ももクロ」のことを書いた時にも、「ぼくと同じですね」とか「誰推しですか?」とか「ぼくはAKBです」とか、急に馴れ馴れしく話しかけてくる学生が多い。悪いけど君たちと同じと思ってほしくはない。はまっているのはもしかすると本当なのかもしれないが、しかしそれを口にするのは少し恥ずかしい。またすぐに「可愛いものには誰でも惹かれますからね」とか、「仔猫と同じで、みんなが癒やされますね」とか言われるのも少し違うと思う。

秋田という地方都市から全国へ、世界へと何かを発信していこうとすることと、ぼくが横浜都市文化ラボでやろうとしているように、もはや何も生み出せなくなってしまった国立大学から文化を発信していこうというのは何か似ているような気がしなくもない。何かまだ読み解かなくてはならない何かがあるような気がしている。もう少し考えてみたい。

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5/17活動報告
http://pramo-akita.com/news1/2280/

リーダーのせれんちゃんのblog
http://ameblo.jp/prm-srn/entry-12027754566.html

こむぎちゃんのblog
http://ameblo.jp/welcom-smile/entry-12027955506.html#cbox

まゆちゃんのblog
http://ameblo.jp/pprraammoo/entry-12028240049.html

早速YouTubeに投稿された当日の映像。よくもこんなに狭いところで踊ってくれたものだ。

2012.10.08

南京・国際記号学会〈途中経過〉

 南京に着いて4日目になるのだが、せっかく持ってきたMacbookAirからだと、TwitterもFacebookもつながらない。その上、YouTubeもつながらない。iPhoneからだとなぜかつながるのだが、あまり長い文章は書けないのでストレスがたまる。というわけでblogに久々に戻ってみた。逆に言えば、Twitter、Facebook、YouTubeに中毒しているということが分かる。

 中国は通算すると5回目だが、最初に来た1992年からもう20年が過ぎ、だいぶ状況は変わってきた。資本主義とは凄いものでネットで予約するとこうやって五つ星の豪華なホテルにも泊まることができる。店の外に表示してある価格は飽くまで建前で、実際には日本のビジネスホテルよりも遥かに安い値段で泊まれる。

 何しろ今の為替レートだと1元=12円ということになっているが、裏通りに行くと2元もあれば結構美味しい昼ご飯が食べられるのだ。だけどもマクドナルドでは小さなカップのエスプレッソコーヒーが12元もする。この経済の二重構造は昔も今も変わらない。経済格差というよりも二重構造なのだ。つまり大多数の庶民の生活はほとんど変わっておらず、一部の富裕層が資本主義の恩恵に浴しているだけなのだが、その一部のパワーがものすごい勢いで広がっているということだ。街を覆い尽くす摩天楼の林立の影では昔ながらのきたない路地と貧しい人々の切り詰めた生活が併存している。まだまだ文化とか芸術とかいうものがそこに入り込む余地はないのである。一部の市場で活躍している資本主義的なアーティスト(とその「アンチ」としてやはり市場から求められている「反体制アーティスト」)がいるだけで、普通の市民生活には何の関係もない。その意味では、中国はこの20年そんなに変わってきていないとも言える。

 南京で一番大きな大学は南京大学である。それと比べると今回の会場になっている南京師範大学は小さな私立大学のようなものである。建物も結構古くてボロい。そこに数百人の外国人が集まってきているわけだが、学会の組織に慣れていないのであまり環境はよろしくない。プログラムも印刷が間に合わずコピーだし、食事もあまり美味しいとは言えない。これで250ドルとか300ドルとか取っているのだが、高すぎる。まあ、普通国際学会はそれくらい取るものだということなのだろう。

 上海から南京までは中国版の新幹線だった。250km/hを超すスピードで走るが1等から3等まであって、2等席の座り心地は余りよくない。南京駅はだだっ広くてものすごい沢山の人たちで溢れていた。中国では身分証明書かパスポートがないと旅行はできない。それでもこれだけの人が移動しているということなのである。そこからホテルに行くまでは大変だった。何しろExpediaで「Nanjing Central Hotel」(南京中央飯店)と表記され、ホテルのウェブサイトでもそう書かれているホテルが、なぜか「南京中心大酒店」(Central Hotel)と名前を変え、その上四つ星が五つ星になっていたのだ。タクシーに連れて行かれたのは全然関係のない「中央飯店」だった。住所だけを頼りに何とかたどりついたのだが、こういういい加減なところはまだまだ残っている。ホテルも豪華なのだが、バスタブの栓が一度しまると開けられない(操作することができない)とか、「推 push」と「拉 pull」の表示が逆とか、ベッドが大きいだけで凄く寝心地が悪いとかいろいろ変なことがある。朝食は、中華、アメリカン、コンチネンタル、日本式と何でもあるが、正直中華以外はとても食べられたものではない。パサパサののり巻寿司を朝から出すものやめてほしい。

 国際記号学会だが、最初に顔を出したのは1998年のドレスデン大会。それから、リヨン、ヘルシンキ/イマトラ、コルーニャと続き、こちらも五回目になる。元会長のR・ポズナーも現会長のE・タラスティもみんな年齢が70前後となって3-4年ごとに会っているので毎回歳を取ったことがよく分かる。若い人たちも増えてはいるのだが、記号論という領域のせいもあるのかもうひとつパッとしない。F・ジョスト、P・ブーイサック、J・ディーリー、K・カルといったおなじみのメンバーと再会するのは楽しいし、韓国や中国の人たちとも顔なじみにはなったのだが、研究発表はマンネリ化していてもうひとつ。

 今回は日本からは参加者が少なく、大阪大学の檜垣さんが組織したラウンドテーブルだけだったのだが、檜垣さんばかりか事務局の小池さんも結局来なかったようで、若い人たちで孤軍奮闘していたのに同情した。韓国のフランス系の人たちは相変わらずだし、今回台湾の人たちのラウンドテーブルも出たのだが、あまりに古いタイプの研究発表なのでびっくりした。情報のギャップはまだまだあるようだ。

 南京にきたら「南京大虐殺記念館」に行きたかったのだが、唯一スケジュールを開けられた今日が月曜日で休みだったため、どうも行けそうにもない。中国の国営放送では、産經新聞の世論調査で日本人の80%が竹島と尖閣諸島問題で強硬策を望んでいると伝え、安倍の人気が高まっていると伝えているが、本当ならとても不幸なことだ。10万人か30万人かは別として、少なく見積もっても数万人の中国人がこの地で日本軍に虐殺されたのはまぎれもない事実であり、政治的な道具に使われていることを別としても見ておきたかった。

 明日が最終日。研究発表以外何も用意されていない学会だが、一応半日の市内ツアーが予定されている。次回の国際学会は2014年9月にブルガリアのソフィアに決まった。東ヨーロッパの人たちが力をつけてきて学会をやりたがっているのが印象的だった。もう日本には誰も期待していないようなので、それは助かるのだが…。


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2012.07.28

石巻、一ノ関、そして平泉の旅(長いです)

 石巻市の立町商店街の一角に、神奈川県の助成を受けて黄金町エリアマネジメントセンターが中心となって展開している「日和アートセンター」というギャラリースペースがある。昨年から事業を開始しているのだが、諸事情もあって名前だけだがそこの実行委員ということになっている。横浜での委員会には参加したことがあるが、まだ石巻には行っていない。気になっていたこともあり、7月21日に石巻まで行くことにした。

 と言っても、石巻に一度も行ったことがないわけではない。去年の6月5,6,7日の三日間、ヴォディチコの作品素材を求めて東北に行った。その時の帰りに立町商店街を車で訪れている。津波で1階が全部破壊され、信号機も暗いままの商店街を抜けて、津波が逆上った北上川河口にかかる破壊された橋を渡ってから仙台に抜けた。この時の壊れた町の印象が強く残っている。

 あの昨年の東北取材旅行のことは忘れられない。まだ、自分の中で解決していないことが沢山ある。

 ヴォディチコとメールやヴィデオ会議で議論をして、そしてパリで開かれた彼の展覧会のオープニングまで足を運び、夏に横浜でやることにしていた「War Veteran Vehicle」というプロジェクション作品の中に、新たに震災と津波の被災者の声を入れようということになった。この判断が正しかったのかどうかは今でもよくわからない。ただ、ぼくもヴォディチコも何かやらずにはいられない気持ちだったし、どうなるか分からなかったのだが、それでも東北にどうしても行きたかったのだ。そこで北仲のメンバー2人と学生2人を連れてとにかく仙台に向かった。仙台駅で卒業生でNHKの仙台支局にディレクターとして勤めている星野さん、それから塩竈出身のIAMASの卒業生で秋田の短大に勤めている阿部さんが来てくれて、初日は仙台駅近くの東横インにホテルを予約して、車で多賀城、七ヶ浜、塩竈、松島などの被災地を見て回った。次の日からはまた津波の取材がある星野さんの話を聞いたり、阿部さんの秋田から4日もかかって実家を訪ねた時の壮絶な体験記などを聞いた。彼女の地元の塩竈では塩竃神社をはじめいくつかの場所を案内してもらった。

 二日目は朝10:00に仙台メディアテークの清水さんと面談し8月の仙台でのイベントの概要を決め、まだ道路に凸凹が残る東北自動車道に乗り、一ノ関インターから気仙沼に向かった。気仙沼では2チームに分かれて、避難所となっている公民館の館長とリアスアーク・ミュージアムの山内さんのインタヴュー。公民館には復興に力を注いでいる地元の酒屋のHさんも来てくれた。気仙沼駅前で合流し、その日に帰られなくてはならないスタッフを一ノ関の新幹線乗り場に落として、残った5人で一ノ関駅西口でビールと夕食。近くのローソンで食材を仕入れその日の宿だった厳美渓渓谷の料理旅館へと真っ暗な夜道を走った。厳美渓渓谷とは一ノ関の郊外にある景勝地で、普段は観光客用の料理旅館なのだが震災で全く客が来ないので素泊まり4000円という格安の値段だったのと、とにかくその時期には被災者とボランティアでどこのホテルも一杯で全く宿が他に取れなかったためにちょっと遠いそこに泊まったのだが、朝ご飯には10品目ものおかずと無料のコーヒーサービスまでしてもらって大感激の宿だった。

 この旅館で阿部さんに問いつめられて苦しかった。家族や友人が被災者である彼女に、戦争がテーマの作品なのになぜ震災や津波の被災者の声を入れようとするのか。彼女の友達に「私たちはステーキの添え物の人参なの?」と言われて、何も言い返せなかったこと。何よりもヴォディチコを知らない人たちになぜそんな見も知らないポーランド人に協力しなくてはならないのか分からないと言われたこと。その日の朝にメディアテークの清水さんにもやはり同じような疑問を投げかけられたこともあって、身が引き締まる気持ちだった。阿部さんに謝って、とにかく明日以降はぼくが身体を張ってインタヴューをしていくことを決心した。ヴォディチコのためと言うよりも、自分自身の問題として引き受けなければ何も先に進まないと思ったのだ。


 そして最終日には朝から再び気仙沼に向かい、公民館の紹介で地元の漁業協同組合の人たちが25,6人で復旧作業をしている現場に行き、Sさんという方から長時間のインタヴューを頂いた。最初はよそ者が何しに来たという感じでよそよそしかったのだが、だんだんと心を開いて頂きとても貴重な話を伺えた。また、そこまで車で先導して頂いた酒屋のHさんにも体験を話して頂き、さらには地元の人にしか分からない場所を何カ所か案内して頂いた。少年野球場を臨時墓地にしている場所のことは忘れられない。そのあと、まるで爆心地のような陸前高田まで行き、バイパスを南下して南三陸町から何カ所か通行止めになっている海岸沿いを迂回して石巻へと向かった。その後、8月にもヴオディチコ夫妻と一緒に仙台メディアテーク、気仙沼や大船渡、陸前高田にはもう一度訪れることになったが、石巻には行っていない。

 今回の小旅行はだから、そんな1年前に訪れたいくつかの場所を確認する旅でもあった。余りにも沢山のことが同時に起こったので、記憶のつながりが曖昧な場所がいくつかあったからである。とりわけ石巻の立町商店街、一関駅前は一回目にしか行っていないので、記憶を確認してみたかった。1年ぶりに訪れた二つの町は灯りが戻り、人々も普通に歩き回っていた。石巻は復興支援の人々でにぎわい、居酒屋やホテルは満員だった。
Img_0253まだまだ瓦礫や破壊された建物の整理が終わらず、町の復興まではまだまだ気の遠くなるような時間が必要なことは一目で分かる。北上川の河口が見渡せる日和山に登ってみたが、河口の西側は砂漠のように洗い流されていて、点々と雑草が生えていた。展望台で会った二人組の若い女性が「草って生えてくるのねえ」と呟いていたのが印象的だった。5,6歳くらいの孫とおぼしき女の子を連れた老人が「津波が家を持って行ってしまったでしょ? 今度津波が来てまたお家を戻してくれたらいいねえ」と話しかけていた。地元の人たちは、今でもこの見晴らしのいい山にこうやって昇ってきているのだ。Img_0252


 一関の駅前で食事をした居酒屋のビルや、買い出しをしたローソンを見たら、1年前の記憶がだいぶ戻ってくるような感覚があった。Img_0263
そこから、10kmほど離れている平泉の中尊寺と毛越寺にも足を伸ばしてみた。もう大昔、NHKの大河ドラマでブームになった頃に両親に連れられて来たことがあるのだが、その時のまんまの姿で、これまた同じ参道を歩いた記憶がくっきりと残っているのが不思議だった。地震はあったものの、津波や原発事故の被害を受けていないこの岩手県内陸部は半世紀近く経っても全く変わらないままでいることも不思議な感じがした。
Img_0276相変わらず資本主義からは取り残されたのどかな日本の田舎である。

 東北地方以外では地震や津波のことは忘れられ、原発再稼働問題ばかりが注目されているが、改めて考えてみるとあの津波の持っていた桁外れの衝撃力こそが去年のあの災害の一番重要なことだったのではないかと思う。人間の文明など紙のおもちゃのように簡単に洗い流し、人も建物も何もかも消し去ってしまったあの巨大な自然の威力をいつまでも目に焼き付けておかなくてはならない。逆に余りにも巨大だからこそ人はそれを忘却しようとするのだろうが、フロイトが言っているように忘却とは心的機制に他ならないのだから、それはぼくたちの無意識の中に根強く息づいてもいるのではないだろうか?

 前回も「ももクロ」のことを書いたが、最近ぼくが彼女たちに惹かれるのは、そのステージの向こう側に押し寄せてくるあの津波の映像が瞼の裏に浮かび上がってくるからではないかと思うようになった。抵抗しようのない津波の中で、そしてその後の喪失感の中で、人間はどうやって生きて行くべきなのか、生き続けて行くべきなのかということを、優秀なブレインたちによって支えられた彼女たちのステージが示唆しているように思えてならない。まあ、これも「深読み」に過ぎないのかもしれないが、元気な少女たちが全力疾走で歌って踊る光景がなぜこれ程までに心を打つかという理由の一つは明らかにぼくの場合にはそこにある。だから、「労働讃歌」と「ニッポン万歳」で終わったパリでのパフォーマンスに感銘を受けたのだ。その思いがもし裏切られることがあるようなら、ぼくの関心も失われることになるだろうと思うが、少なくとも2011年の彼女たちの活動はこの津波のイメージと切り離せないのではないかと思っている。

2010.08.17

北京の7日間(その2)

 中国の大学の例にもれず、北京大学もまた巨大な大学だ。すべての教員・学生はこの中に住んでおり大学内には店もホテルも沢山ある。その広大なキャンパスの至る所に何百枚もの「国際美学会」のフラッグが風にはためいている。確かにこれはひとつの政治的イベントのようだ。

 メイン会場の「百年記念ホール」はコンサート等にも使われている2000人規模の巨大会場で、そこでオープニングのセッションが開かれていた。会場で東京大学の小田部胤久夫妻らと顔を合わせる。外に出ると実践女子大学の椎原さんとも会う。学食でランチ。あまりおいしいとは言えない。レジュメ集やプログラムが余りに膨大で重いので、地下鉄を試すのを兼ねてホテルまで一度帰る。ちょうどSUICAのようなカードがあってとても便利だし、なにせ市内一律料金は2元(約26円)だ。ただ、安いだけあってあまり便利とは言えない。会場からは2度乗り換えなくてはならないが、階段の昇り降りも多く、1時間近くかかってしまった。すぐに今度は別な経路で北京大学に戻り、この日はオープニングということで、学内で一番豪華なホテルでのレセプションに参加した。どうやら日本からは数十人が来ているらしい。欧米人の参加者も多い。この機会に中国に来てみたいとみんな思っているようだ。中国人のほかに韓国人、インド人、シンガポールからの参加者も沢山いるらしい。吉岡洋と合流し、彼の泊まる学生街付近で買い物をして白酒を飲み、タクシーで帰る。

 二日目の10日には午前中から昼過ぎまで観光。ホテルから王府井、路地を通りぬけ故宮の横から天安門へ。さらに新しくテーマパークのように整備されている前門地区まで歩いた。湿度が高く、ものすごく暑い。天安門には以前も来たが、今回は観光シーズンのためか中国人観光客で溢れかえっている。確かに、中国人は旅行をするようになったようだ。人ごみで疲れる。大気汚染もかなりのもので、喉がいがらっぽくなってくる。前門から地下鉄に乗って北京大学へ。午後のセッションに少しだけ顔を出して、吉岡洋と王府井まで地下鉄で。京大の院生でパリ第八大学に留学中の大久保美紀と合流。去年のア・コルーニャの学会以来だ。観光客用のちょっと高い四川飯店で食事。あまり辛くはないが繊細な味付けでおいしかった。その後、NOVOTELのラウンジでカクテルを飲み就寝。

 11日は会場で吉岡と合流し、昼食を食べに彼の泊まっている学生街に行く。いくつかの店を回りながら、何となくオシャレなヌーベル四川料理風の「辣香美味」という店に決める。ここは素材を選んで鍋の中で辛いソースと混ぜあわせたものを食べるのだが、とても美味しい。ウェイトレスたちの愛想もよく満足。そこから会場へ。2:00から二組にわかれて故宮と頤和園への遠足。僕たちは昔故宮は見ているので、頤和園へ。西太后の別荘だがきわめて広大な施設ではあるが、高低差もありなかなか変化に富んだ庭園で楽しめた。そのまま内部にある宮廷料理を食べる。白酒を飲んで帰る。

 12日は午前に佐々木健一さんが組んだパネル「美学の哲学的役割?」に出演した吉岡の発表。とても面白く聴衆の反応もとてもいい。ただ、ほかのパネリストたちがあまりに面白くない。途中さぼって外に出ると小河原あや姉妹と遭遇。また、関西学院大学の加藤哲弘たちとも遭遇。8人くらいで昨日と同じ辣香料理。汗を沢山かく。午後は自分たちの発表だが、嫌な予感がした通り、聴衆の集まりがよくない。しかも司会をしたブラジル人のおばさんが頭が悪く、早々と発表時間にされてしまい、みんなが部屋に到着したころに終わらなくてはならないという、これまでに二番目くらいに不幸な研究発表になった。そのあと大久保や小河原たちの研究発表にも顔を出したが、前会長の娘が発表する分科会に入れられた小河原が一番幸せな研究発表になったと思う。この日はどうしても王府井で北京ダックを食べたいという加藤哲弘の仕切りで14人くらいの大所帯で王府井へ。日本よりは全然安いが、それでも全部で2400元というこの国にしては物凄い贅沢な夕食だった。始めたのが8時くらいなのでこの日はこれで終わり。何人かは翌日に日本に帰った。

 13日は朝から近くのチベット寺院雍和宮へ。その後、北京大学近くの「北京の秋葉原」中関村へ。確かにものすごく賑わっていて両手いっぱいに買い物をしている人たちが歩いていた。ただ、ビル内は市場のように小さな店が林立していて客引きがとてもうるさいので早々に退出。学食でまずいご飯を食べていると近寄ってきたのが、2001年の幕張大会で会ったスウェーデン人のMIchael Ranta。彼はバッタをすごく気に入ってくれてスウェーデンの新聞に掲載してくれたのだが、ぼくが余りにその頃忙しく返事もしていなかったために申し訳ないことをした人だ。彼はLUND大学に移ったというので、記号学会絡みでもまた会うことがあるかもしれない。昼過ぎから最後のセッションに出ている京都芸大の加須屋明子、椎原伸維らのセッションに参加。その後、総会にも参加するが、意味のない政治的デモンストレーションにうんざり。初日と同じホテルで食事だが、パーティ形式ではないのでばらける。頤和園で知り合った韓国の李花大学のイギリス人と韓国人のカップルとバーで談笑。タクシーでホテルに帰る。そして、翌14日、6:30にチェックアウトし、日本へ帰る。

 中国、特に北京にはしばらく行きたくない。別に中国人が嫌いなのではない。とにかく、いまここで目の当たりにしている中国人たちとほ本音で付き合うことが難しすぎるのだ。彼らが囲まれている環境は、ただ単に政治状況的なことからでも、因習的な習慣からだけでもないが、とにかく中国の特殊な条件に縛られすぎている。ある意味では中国はいつまでたっても「中華」なのかもしれない。そして、本当にぼくたちが彼らよりも自由であるのか、民主的であるのかも判然としない。とにかく、世界は「悠久」の中で「変わらずに」存在している。中国はこうしていつまでも「謎」として目の前に立ちふさがる。

 まだまだ書ききれないのだが長くなってしまったので二つに分けて書いてみた。
 さて、また日本でのいろいろな戦いが始まる。

北京の7日間(その1)

 8日から14日までは、北京大学で開催されている第18回国際美学会。3年ぶりに開催されている国際学会だが、2回行っていないし、最後は2001年の日本で開かれた幕張大会で、ちょうどバッタと格闘していた時期なのでほとんど顔を出していない。実際には98年のスロベニア大会以来ずっとご無沙汰していることになる。だから、知り合いもほとんど居ないしアウェイの気分で参加した。次の2013年はクラコフだし、ちょっと行きたいかな。

 そもそも中国に行くこと自体が16年ぶりである。何となく気持ちの中で中国を避けている部分があった。

 92年の10月、東アジア記号学会設立のためということで、湖北省武漢市にある湖北大学で開催された第一回の東アジア記号学会に参加した。日本からは当時記号学会の会長だった坂本百大さん、藤本隆志さん、川田順造さんをはじめ8名が参加した。吉岡洋とぼくはまだ30台半ばで「若手」であり、ぼくはこれが人生初めての「国際学会」だった。北京では中国科学院の人たちの出迎えがあり、天壇公園や万里の長城、故宮、北京ダックのご馳走、友誼商店や王府井の観光などをして、飛行機で飛んだ先の武漢は、タラップを降りると、鉄道の駅のような小さな空港。埃だらけで、タクシーなど一台もおらず、ワゴン車とトラックしか広場に停まっていないような田舎。凸凹だらけの道をワゴン車に揺られながら、湖北大学の「招待所」に連れていかれた。この時の印象は強烈だった。遠足で全員で赤壁などに旅行したが他に、ポーランドからペルチ、フランスからデルダール夫妻と当時の国際記号学会の会長、副会長も招待されていたが、外国人が参加する学会自体が珍しいらしく、この地方のテレビ局がわざわざ取材に来ていた。

 この時の中国体験は大きなショックだった。学会というものが、単なる政治的な権力誇示の道具であるということをまざまざと思い知らされた。いろいろ書き出すときりがないが、とにかく中国には驚いてしまった。単に前近代的と言うのとは違う。何かものすごくあからさまな支配と抑圧が至る所に噴き出していた。ほとんど別な太陽系の惑星を訪れた気分で世界がこれほどまでの異質性に満ちていることに唖然とするばかりだった。その後、94年まで毎年中国を訪れ、いくつかの町にも旅行したが、驚くべきスピードで進行する経済発展や、インフラの整備を目の当たりにはするものの、この国の政治体制と、おそらくはもっと昔から綿々と営まれてきた中国の封建的なシステムに関しては全く変わらないし、これからも変わることはないだろうと思われた。

 というわけで、16年ぶりに訪れた北京も、道路や地下鉄、林立する高層ビルとはかかわりなく、全く以前と同じ印象を受けた。北京大学で開かれた学会も、これまた前と同じような政治ショーの印象。短期間の滞在だと疲ればかりが残る。この冷たい、理不尽な校則だらけの高校のような町では、なかなか本当の人の心の中にまで踏み込んでいくことはできない。1000人以上参加した巨大学会だが、その半数以上を占める中国人参加者たちとの交流はほとんどできなかった。もちろんひとりひとりの中国人の優秀さや素晴らしさは確信している。だけども、彼らと本当に交流することなどはできないのだ。彼らの発言や行動は最初から巨大な枠の中で押えつけられており、その本音を引き出すことはとても難しい。

 泊まったのは王府井と東単の真ん中辺りの胡洞にあるちょっと薄汚れたビジネスホテルのようなところ。古い北京がそのまま残っているような(ということは取り残された)地区だ。北京大学近辺に泊まるのが嫌だったからだが、やはり、遠すぎた。地下鉄でも1時間、タクシーを使っても40-50分近くかかる。タクシーに乗っても、この巨大な町のすみずみまでを知る運転手はほとんどいないのか、必ずと言っていいほど迷った。また、場所がよく分からないからと乗車拒否する車も多かった。

 着いた翌日、アイ・ウェイウェイのアトリエに行くことになっていたのだが、798芸術区よりちょっと南にある草場路に1時間半遅れでたどり着いた。王府井で2台のタクシーにその辺はわからないと乗車拒否されたあげくに、3台目は雲助タクシーで、走りだした途端メーターを入れずに「500でどうだ?」と言い始める。ふざけるなと怒ったが、約束の時間に完全に遅れそうなので「300で」と手を打った。普通の料金の4-5倍高いがまあ仕方ない。ところが、このタクシー、全く場所がわからずぐるぐると回るだけ。携帯で道案内してもらっても、それでもわからず大幅に遅れてしまった。

 まるでビバリー・ヒルズの邸宅のような広大なアトリエは二棟あり、その広い中庭に十人くらいのスタッフに囲まれて、アイ・ウェイウェイは打ち合わせをしていた。顔色はすこぶる悪く、こちらが笑顔で手を振っても表情は変わらない。金髪の秘書のような女の子に、これは誰だと聞いてようやくわかったようで力なく笑った。あと5分待ってくれと言われて、スタッフの間に座らせられる。どうやら9月のスケジュールについて打合せしているようだった。そこに、欧米人の男性と中国人の女性が訪問してきた。彼らをちょっとここで待たせるようにと指示すると、左側の台所のついた建物の中に招き入れてくれてようやく会談。その間にも、また別のグループがアトリエに入ってくる。まるで日本に来日するハリウッドスターのように分刻みで訪問客がくるようだ。話している時に携帯に着信があり、また話が中断する。

 お茶をスタッフに頼みながら、「大丈夫だ。お前のことは覚えている。光州で会って、二回食事をした。そしてお前は面白い発表をした」。しかし、笑顔はない。「日本はどうだ?」と聞くので「どうしようもない。あなたが去年展覧会をした六本木なんて最悪だ。日本人は伝統も心も失ってしまった」というようなことを言うと「俺もそう思った。お前が全く違うことはよくわかる。」と答える。「どうせ、日本には行かなくちゃならないから、お前が何かやるのなら出てみたい。ただスケジュールが自分では分からないので、スタッフとメールで確認を取ってくれ」というような話。戻ってくるからちょっとその辺を見て待っていてくれ、とまた来客の接待。しばらく見学していたが、次の客の相手になったので、もう帰ると伝えると、「妻のアトリエも近くだから見ていってくれ」と握手。「体に気をつけてください」というと、ニヤリと笑って「みんな、ぼくにそう言う」と言った。彼の置かれている状況について、ある程度の想像はできるものの、本当のところは分からない。だが、とてつもないプレッシャーと戦っていることだけは確かだ。

 しばらく、中国人の男の子に案内されて付近を回ったが、草場国際芸術村はあまりに広々としていて全部を見るのは諦めた。そこからタクシーを捕まえて、今度は無事に北京大学に到着。途中で彼の設計した巨大なオリンピック・ドーム「鳥の巣」が見えた。ここはチープでキッチュな未来都市だ。

2010.05.15

第30回日本記号学会「判定の記号論」と光州事件30周年記念展「The Flower of May」(2)

 二日目になると、聴衆がほとんど居なくなった。展覧会に作品を出すアーティストはしょうがないにしても、韓国人の聴衆がほとんど顔を出さない。そもそも最初から普通の聴衆は誰もいないのだ。会議の参加者だけのような感じで続ける。こういうところが、韓国で開かれる文化イベントのどうしようもないところだ。国内政治ばかり考えており、韓国の普通の聴衆や観客のことは全く念頭にない。一応進行役で残っていたイ・ヨンウも頭の中はどこか他のことばかり考えているようで落ち着きがなかった。それでも、ここにいるのは欧米の重要な美術機関に関わっている人たちなので愛想だけはとてもいい。

 ぼくの発表はかなりの反響があった。一日目の段階では謎の日本人という感じだったのだろうが、ライナーや何人かのアーティストは興奮して話しかけて来てくれたし、ジャールやノーブル、そしてアイ・ウェイウェイも面白かったと話しかけてくれた。メリッサをはじめとするキュレータたちはニュートラルな反応だったが、パリのル・コンソーシウム・センターのフランク・ゴスローなどは激高して論争にもなった。コレクションなんてやめて、アートを「口実」として社会にどんどん介入していった方がいいというような話なので、インサイダーたちにとっては耳障りな話だったろうとは思う。しかし、そういうことを言う人が誰もいない以上、必要なことなのだ。イ・ヨンウも黙っていた。彼はビエンナーレのすべてを支配している。オクスフォードで学び、ニューヨーク大学で10年間美術史を教えていたという彼だけが、世界のアートワールドとつながっており、それ以外の韓国人たちは誰も現代美術についての知識も関心ももってはいない。まあ、多分もう呼んでもらえないのでどうでもいいことだが。

 午後はほとんど参加者だけでディスカッション。ぼくの話には触れずに、片岡さんの日本やアジアの美術状況についての発表を問題にする人が多かったが、ライナーの挑発でぼくもちょっと過激な議論をもちかけた。全体的にはフランクを始めとするキュレータたちの現状分析の話に終始した。ジャールやアイ・ウェイウェイはほとんど発言をしなかった。後から彼らは、ぼくの話が面白かったと言ってくれた。
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 そこから美術館で開かれる展覧会「The Flower of May」の会場へ。ビエンナーレのために作られた郊外の巨大な公園の中に美術館がある。ロビーでオープニング・セレモニー。次から次へ関係者のスピーチが続き、果てしなくセレモニーが続いてうんざりする。ナム・ジュン・パイクのように来ていない人も含めると30人程のアーティスト。他にキュレータやパネリスト、パフォーマーを合わせると50人規模の外国からの招待者がいる。内覧会ではセシリア・トリップと、Cai Yuan & Jian Jun Xiという二人の中国人アーティストによるパフォーマンス。Cai Yuanは移動中バスの中で話をしたが、とてもいい人で、ロンドンで二十数年過ごしたが今年北京に帰ると言う。本当は絵を描きたいのだが、パフォーマンスばかり人気があってそれしかできないと言っていた。彼らはトマト・ケチャップと醤油を使ったパフォーマンスを各地でやっている。たとえば、こんな感じ。

 光州版では場所に合わせて、ケチャップと醤油を掛け合って戦うパフォーマンス。血みどろになった市民を表現しているそうだ。セシリアのは単に韓国の亀を沢山置いて、韓国の僧侶が亀を連れて散歩するというパフォーマンス。何だかよくわからない。アルフレッド・ジャールは巨大な展示室に生きている花を並べて巨大な墓地を作った。正面には光州事件のモノクロの写真が投影されており、巨大な送風装置が墓に植えられた花を揺らしている。それなりによくできた展示ではあるが、ジャールに聞くと彼はこの作品の設置に全く立ち会っていないという。そういえば、彼はぼくたちと同じ日に韓国に来て、ずっと一緒に会議に参加していた。図面とメールによる確認だけで、作品の設置は韓国人の業者が最初から最後までやった。適切な指示はちゃんと送ってあるから大丈夫と言っていたが、何となく割り切れない。彼を含めて大半のアーティストは次の日の便で帰国したのだから、結局彼らは韓国の普通の観客にはまったく出会っていないということになる。それに、少なくともぼくの見ている限りではメディアにも全く接していない。どうやら、国際的な文化ハブ都市における国際交流というのはこういうことらしい。基本的にはイ・ヨンウとその取り巻きがすべてを統制しており、そこには公衆というものがいない。プサン、インチョン、ソウルでも似たような国際展が開かれているが、それらもこういう感じなのだとすれば、そこにはあまり未来はない。アート・マーケットに開かれたアート・フェアの方がまだしもではないかという気もしてくる。

 その後、光州市内の中心部にある別会場へ。コンテナを積み上げて作られた「クンストハーレ」と呼ばれる施設と、地下室に展示されたレーザー光線の作品を見る。クンストハーレもまたこの日がオープニングで、シャンペンが振る舞われた。なかなかよくできた施設ではあるのだが、何億ドルもある予算をもつビエンナーレ事務局がなぜこんな「アルターナティブ・スペース」を作らなくてはならないのか。よくわからない。要するに「アルターナティブ・スペース」というものも欲しかったから作ったということなのだろう。ライナーのものの含めていくつかの展示があったが、空間をまるで無視した展示だった。誰がキュレーションしても結局同じことだろう。

 そして、50人近くの大人数で日本料理レストラン「佳梅」へ。日本語で何と発音していいか分からない店で、前に全州で連れて行かれた日本レストラン「東京」と同じく、刺身らしきもの、天麩羅らしきもの、寿司らしきものなどが出てくる全くおいしくない店だった。巨漢のアイ・ウェイウェイは座るのがとても難しかったが、それでも自分からぼくの隣に座ってくれていろいろいと話した。あまり接点がなかったノーブルも正面に座っていろいろと話した。ウェイウェイは展覧会場ではうんざりしていたらしく、早々に抜け出していた。「あなたは本当はアートなんて好きじゃないんじゃないか」と聞くと、「自分で自分のことをアーティストと思ったことは一度もない」と言う。彼はぼくよりも1-2歳年下だが、文革で批判された有名な詩人の息子であり、80年代にはニューヨークに留学するなど恵まれた環境にいたが、ほとんど誰ともつきあわず、無為に過ごしていた。93年に中国に戻ってからもほとんど活動をせず、2005年に中国で初めてオークションが開催されるまで、作品が売れたことは一度もないと言っている。北京オリンピックのメイン・スタジアム「鳥の巣」を作ったことで有名になったが、オリンピックには批判的な発言を続け、当局からは今でも監視されている。

 最近は四川大震災をモチーフにした作品を作っているが、今回の展示もとてもスマートなものだった。当局側は彼に一番広い展示室を用意したが、彼は敢えて何の指示もあたえず空っぽなままにさせておいた。そして、昨日の深夜彼は北京のスタッフたちと共同作業で、つい最近中国政府が発表した四川大震災の死者たち数万人の名前をラップトップコンピュータの画面の中で順番にスクロールするだけの作品を作り上げ、それを展示したのだ。だから、巨大な空の展示室の中に小さなテーブルが置かれ、そこにラップトップと小さなスピーカーが置かれて音楽とともに漢字の名前がスクロールしているというだけの作品である。

 ビエンナーレ事務局側の意図も考え合わせてみると、これほどスマートで皮肉な展示のやり方はないのではないだろうか。他のアーティストたちとは明らかに一線を画している。彼は2007年のドクメンタ12で、1001人の中国人をカッセルに連れて行くというイベントを行っている。インターネットで中国全土から集められた中国人1001人が国際美術展に出現するというのは凄い戦略的な発想だ(うち2人は行方不明になったそうである)。この日はだいぶ彼と打ち解けて話ができ、8月に中国に行くといったら是非スタジオに遊びにきてくれと誘われた。

 まだホテルで仕事があるというアイ・ウェイウェイや何人かを別にして、ほとんど全員がホテル最上階のバーに集まり二次会が始まった。ぼくは1:00過ぎに退去したが、ロシアのミンスクから来たというピアニストと歌手がビートルズナンバーを歌うというかなりヘンテコなバーラウンジだった。

 次の日、空港に行くまでの時間を利用して近くの巨大なロッテ・スーパーマーケットで買い物。博物館とかに連れて行かれるのは嫌だと言ってついてきたライナー・ガナールと二人で近所を歩き回った。ここはどうやら新都心地区らしく高層ビルや官公庁・銀行などのビルが並んでいる。だが、都市計画がずさんでかなり醜い町並みになっている。何よりも建物のデザインが悪趣味である。自動車会社「現代」がある町で、高層の団地の棟が無数に並んでいるが、無機質で暖かさのない町だ。そんな中で裏町を歩き回りながら最後に入った人気のあるクッパの店が唯一の救いだった。今回一番美味しかったのはここのクッパである。

 空港で何人かと再び顔を合わせる。帰りは便の接続もよく、金浦空港から羽田に直行。飛行機に乗ってからは4時間ほどで到着した。

 何はともあれ、結構特別な経験をすることができたと思う。普通にビエンナーレに行くだけでは知ることのできない内幕や内部事情も知ることができた。また、アイ・ウェイウェイやアルフレード・ジャールを含めていろいろな人と知り合えた成果も大きい。来週20日の午後5:00から北仲スクールで開くぼくの授業「アーバンアート論A」(学内名・情報文化論B)でその話をしたいと思いますので、関心のある方は是非参加して下さい。どなたでも、またこの回だけでも参加できます。Img_9567alredohisashiai

第30回日本記号学会「判定の記号論」と光州事件30周年記念展「The Flower of May」(1)

 5月8日と9日は、神戸大学で日本記号学会大会。新会長・吉岡洋、事務局長・小池隆太、編集委員長・前川修という新執行部による初めての大会が開かれた。

 神戸は、80年代に長田にある神戸学院女子短期大学というところに非常勤で通っていた。三宮で何度か飲んだこともあるが、それ以降訪れる機会はなく、甲南大学でやはり記号学会が開かれた時にも三宮まで足を向けることはなかった。だから、95年の震災以降の神戸を知らない。といっても時間もないので、新神戸から六甲に行く途中に通り過ぎたのと、二日目の朝ご飯を食べにでたくらいだが、三宮辺りの印象は昔とあまり変わらないように思われた。初日は「裁判員制度」をめぐるセッション。瀧川記念学術交流会館という超絶眺めのいい場所で開かれた。終わった後は会場で懇親会、そのあとはJR六甲道付近の居酒屋で二次会。結構遅くまで楽しく談笑した。

 次の日は午前中に研究発表、午後には岡田温司+檜垣立哉、吉岡洋+稲垣正浩各氏によるセッションがあり、盛りだくさんな会だった。神戸大学の学生たちの発表もよく頑張っていたし、何よりも30-40代の若手の参加が多かったのが心強い。20周年の時には記念出版『記号論の逆襲』を出したが、まあ考えてみたらよく30年も続いたという思いもあるが、何しろ日本では珍しい自由で何でもできる学会なので、何とか頑張って続けて行きたいものだ。来年も、若手が刺激的な大会を企画してくれそうで楽しみだ。

 深夜に帰宅し、そそくさと荷造りをして、翌10日は韓国・光州に出かける。羽田からソウルの金浦空港までは2時間。ビジネスクラスなのでラクチンだ。ただ、そこから光州までの乗り換え時間が長くて少し待ちくたびれた。7:30頃ようやく光州空港へ。ビエンナーレ事務局から女の子が迎えに来てくれ、一緒に参加する森美術館学芸員の片岡真実さんと共に市内にあるラマダ・インターナショナル・ホテルへ。最近建ったばかりらしく、周辺には高層ビルと建設予定地の空き地がひしめいている。繁華街なのでコンビニや飲み屋も沢山ある地区だ。とりあえず近所を散歩してビールを飲んで寝る。

 次の日、ホテルに迎えのバスが来て、大量の欧米人、アジア人と一緒に会場となっている全南大学へと向かう。広大な敷地に14もの学部があるマンモス国立大学だ。その中にある会議場でシンポジウムが開かれるようだ。今回の企画は、光州事件30周年を記念する大規模展覧会「The Flower of May」の一環としてシンポジウムとスペシャル・パフォーマンスが開かれるというものである。展覧会やパフォーマンスに参加するアーティストたちも一緒にこのシンポジウムのオープニングに参加するらしい。というわけで、オープニングは賑やかだった。背広を着た地位のありそうな韓国人の参加者もかなりいて、会議は英語・韓国語の同時通訳で行われる。

 光州ビエンナーレ副事務局長(但し、事務局長は光州市長なので実質的にはこの人がボス)のイ・ヨンウ(Yongwoo Lee)氏による開会宣言から始まり、韓国の詩人と「アジアの文化ハブ都市事務局長」によるセッション。どうやら光州はビエンナーレをさらに発展させて、デザイン・ビエンナーレ、アート・フェア、機関誌「Noon」の公刊などを軸にアジアの「文化センター」になろうとしているらしい。このセッションが終わった後、会場に居たテグ出身の大学教授が「文化予算の分配が不公平で、アーティストたちの未来は暗い」というような発言をして、いきなり大論争になる。イ・ヨンウが激高して「そんなことはない。ビエンナーレの予算は5億ドルから7億ドルになり、来年は10億ドルになる」というような発言をして、正直その金額の多さにビビる。建物や施設も含めての予算なのだろうが、それにしても凄い。今回だけでも40-50人の外国人を招待しているが、それくらいは何でもないのだろう。横浜トリエンナーレなど国内の国際展の予算は数億円だろうから、金額的には二桁違うということになる。なぜ、韓国政府はそんなにも現代美術に文化予算を拠出するのだろうか。もちろんそこにはそれなりの計算が働いているはずだ。

 午前中は、ロンドン大学ゴールドスミス校で美術史を教えるRichard Noble氏の発表。現代美術におけるユートピア思想の重要性というような話だが退屈。ディスカッションに参加したのは、展覧会参加のアーティスト、Rainer Ganahl, Jung Kumhee, Caecilia Trippらだが、テンションがものすごく高くしゃべり続けるライナー・ガナールはトリックスター的で、ちょっとうるさいと思ったが、結局は仲良くなる。彼は日本語も結構しゃべれるし、柄谷行人さんがニューヨークに居た時に仲良かったらしい。

 お昼は大学の食堂で、韓国式バイキング。余談だが今回せっかくの韓国なのに食事がよくない。安くておいしそうな店は沢山あるのだが、接待なのでそうもいかない。ホテルの朝食も普通だし、ディナーも一日目はアジアン・ヌーベル・キュイジン、二日目は韓国流高級日本料理レストラン。結局一番おいしかったのは帰国する日のお昼にライナーと一緒に入ったクッパ専門店と、行き帰りの機内食だった。

 一日目の午後は、アーティストAlfredo Jarrと、ニューヨークのアジア・ソサエティのキュレータMelissa Chiuの発表がそれぞれ面白かった。
Jarrは去年横浜で開かれた「国際映像展CREAM」にも参加しているチリ出身のアーティストで、街の中に繰り出して行く「Public Intervension」タイプの作品が面白い。とりわけ、トロントで行った作品が面白かった。ヴォディチコとも近い関係にあるアーティストだが、発表は過激で面白かったものの、普段は口数が少なく、二日目も全くしゃべらない。暗い感じの人ではあるのだが、どうも相当居心地が悪そうだった。メリッサはやり手のアジア専門のキュレータでオーストラリア出身。現在の中国、韓国、日本の状況を幅広く捉えており、美術マーケットが加熱し、美術館や美術展が大きくなりすぎている現状に危機感を抱いている。ただ、あくまでもアートワールドのインサイダーであり、余り理論的なことには関心がないようだ。

 ほとんど議論をする時間もなく、6:00から始まるパフォーマンスのために会議は中断。みんなで外に出てArto Lindsayらによる特別パフォーマンスの開始を待つ。韓国人の学生たちを60-70人使っていて、建物全体を使ってのパフォーマンスによって始まるが、中身はただのバンドによるショー。サンバやボサノバ、ノイズ風なアレンジもあったが、ほとんどが3分程度の普通のポップスで、とても退屈。8:30くらいまで続いたが退屈してバスに戻ると、メリッサとライナーがいて、一緒に悪口を言いまくる。バスでレストランに移動。すると、そこには展覧会の全参加者が集まっていて一緒に食事。片岡さんと打ち合わせをしていたアイ・ウェイウェイ(芥未未)がここで合流。アイ・ウェイウェイは昨年六本木の森美術館で片岡さんと一緒に展覧会をやっているが、これが今年アメリカ各地を巡回するらしい。巨漢で、日本に来た時には「ラッシャー木村」と間違えられたりしたらしい。物静かだが、写真を撮るのが好きらしくデジカメを出してみ写真を撮りまくっている。とにかく、いま一番注目されている中国人アーティストなのでいろんな人が挨拶にやってくる(し、彼の正面に座ったぼくの隣のライナーがひっきりなしに話しかけるので)、この日はあまり話せなかったが、二日目にいろいろしゃべることができた。終わったのが11:00過ぎなので、この日もビールを飲んで寝る。
(続く)

2009.07.08

ヒルサイドと巨大バッタ

 横浜の開港150周年記念イベントの「ヒルサイド会場」が7月4日にオープンした。

 主催者イベントのひとつとして招聘された「飛蝗」は、6月11日に水戸芸術館の収蔵庫から運び出され、リハーサルを何度か繰り返し、16日にはメディア・プレヴュー、20日にはベイサイド会場でLa Machineの巨大蜘蛛と対面し、8年前に飛び立ったインターコンチネンタル・ホテルへと舞い戻ってきたのだが、その日、ジャック・モール裏の空き地、TVKハウジングセンターと三カ所で展示。さらに25日には劇団唐ゼミ☆と市民ボランティアによるショート・パフォーマンスの公開リハーサル、28日にはやまない雨の中、緑区の要請で中山で展示、2日はメディアと市民向けの内覧会で約4000人の観客の前で初舞台と、オープニング前にずいぶんといろいろな場所を回った。

 あれを設置するのはとても大変なのである。なにしろ自重1トンもある、重い布を広げ、空気を入れ、足を持ち上げ、回収するのにはとてつもない労力がいる。特に28日の雨の後の撤収はつらかった。雨合羽が全く役に立たず、下着までびしょぬれになる上に、水を吸い込んだ布の重さは倍以上に感じられる。その上、今回触角を立てるための新しい仕掛けや、痛んだ布やジッパーの補修などの作業も加わり、オープニング前に疲労が積み重なっていた。

 それでもようやく4日のオープニングを迎え、5日には天気も悪くなく、プレヴューが一段落するはずだったのだが……、残念ながら強風のために5日の午後4:00に予定されていたパフォーマンスは中止となってしまった。協会が用意していた風速計が10mを越えたのと、目の前でバッタを支えていたペグが抜けたり曲がったりして、バッタが横倒しになってしまったために、仕方なく中止するしかなかった。傍目に見れば、それほど大した危険もなさそうに見えるが、火を使うパフォーマンスをやるには無理な状態だった。ずいぶん沢山の苦情やクレームがきたようだが、風にはさからえない。

 本番は8月の1,2から月末までの毎週土日である。クロージングまでの二週間もやはり土日に行われる。朝10:00からバルーンの展示が始まり、夜7:00からは照明を入れたパフォーマンスが行われる。これまでのは飽くまでリハーサルにすぎないので、是非こちらに来て頂きたいと思う。

 実際にやってみて、あの会場にバッタのバルーンはとてもよく似合っていて、あれがないと寂しいだろうなあと思うが、予算の面でも、体力の面でも、とても毎日展示するわけにはいかない。是非、8月の土日に来てください。隣の動物園ズーラシアとのセット・チケットがお得です。実は初めてズーラシアを見たのだが、日本の気候と自然環境に適応する動物を見せるという、こだわったコンセプトの動物園でなかなか面白かった。恥ずかしがりやで人目につきたくないオカピはどうやら交代で出されているようだし、多分一二匹では地味な存在である「ヤブイヌ」(BushDog)やアカカワイノシシとかが群れているのもなかなか風情があって面白い。ここを見て、昼サイド会場で昼・夜のバッタを見て980円はけっして高くないと思います。駐車場は遠いけど一日千円だし、横浜線の中山、相鉄線の鶴ヶ峰からは無料のシャトルバスがひんぱんに出ています。
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2008.05.15

四川省の地震

ぼくのゼミ生の女の子の故郷も震源から50-60kmの近傍であり、ご両親の消息はまだ分からない。おばあさんが小学校に避難していることだけは分かったが、その他の親戚の消息もわからない。もちろん電話もメールも通じない。ボランティアで現地入りできるのなら、今すぐにでも参加したいと言っていたが、武装警察と軍、少数の中国人ボランティア以外、外国からの人的支援はなかなか受け入れ態勢が整わない。とりあえず、募金はできるし、お金なら何とか支援できるが、生き埋めになっている人の救出の時間的期限が迫っているのにもどかしい。それでも今回の台湾人の同胞に対する迅速な支援には驚いた。総選挙以来の大きな事件だからということもあるだろうけどね。震源地がチベット族の自治区であったということもあり、中国をめぐって、ここから何か大きな変化が起ころうとしているのかもしれない。
それでも中国の方がまだ全然マシだ。ミャンマーと比べれば、だけど。

2007.06.20

帰国した。

 イマトラには初めて行ったが、ここは湖沼地帯。ロシアとの国境まではほんの10kmくらいしかない。保養地なので余り人がいない。見渡す限りの広大な自然に囲まれて文化施設がある。文化センターと隣のシティホール、さらに3kmほど離れた中心部のホテルの会議会館と三つの場所で分科会が開かれており、これらを結ぶバスが走っている。

 文化イベントとしては金曜日にロシアのパペット・シアター、土曜日にはタンゴ(なぜかフィンランドではタンゴが盛ん)があって、結構深夜まで行事が組まれている。

 ここの唯一の「名物」は「イマトラ・ラピッド」で、「MOV07320.MPG」をダウンロード
「MOV07323.MPG」をダウンロード、湖同士を結ぶ水路に作られた水門を開放して濁流が流れるのを見るのである。夏は毎晩7:00に開門される。音楽が鳴り響き、水が溢れ出すと濁流の上に張ったロープに滑車をつけて滑走するというスペクタクルが始まる。これはちょっとやってみたかったが、35ユーロも取られるというのでやめておいた。

 会長のタラスティはなぜか日本にとても来たがっているし、事務局長のパズ・ガーゴも次回のコルーナでの国際会議にアジアから来て欲しいらしく、次回の学術委員会のメンバーにさせられてしまう。学会それ自体よりも、こうしたロビー活動の方が忙しい。総会でも、理事会でもそんなこんなの議論沸騰。そんな中でイタリア記号学会長のパオロ・ファブリと知り合えたのが収穫。

 日曜日のクロージングには会議をさぼってスウェーデンやラップランドに旅行していた中国人グループが再集結。来年の南京会議を宣伝していた。午後は何もやることがないので吉岡と散歩。フィッシング・パークの釣り堀でニジマス釣りに挑戦するが一時間以上やっても収穫なし。そのまま川沿いに散歩すると韓国人や台湾人のグループにばったり会ったり、前会長のローランド・ポズナーとばったり会ったりする。そのまま、おそらくイマトラ唯一と思われる謎の中華料理店で食事をし、またイマトラ・ラピッドを見て、またまた歩いてホテルへ。おそらくは10-15kmはゆうに歩いたと思われる。

 翌朝は列車でヘルシンキへ。空港に行くとこれまた中国人グループやパズ・ガーゴと再会。パズ・ガーゴと初めてゆっくりしゃべることができてこれまたロビー活動。

 とにかく、同じ記号論研究と言うことでも、世界各地で状況や文脈がバラバラなのが、ある意味では面白い。こういうのはレベルの高低ではなく、徹底的にその社会的政治的機能や、意味合いが異なっているのだ。ぼく自身はこういうことに余り深入りはしたくはないのだが、それでも中に入ってみなくては分からないことも多々ある。圧倒的な世界の多様性とじかに触れ合うのは、時間はかかるがやはり他では味わえない醍醐味がある。

 というわけで、二年後のスペインでの会議にも行きたいと思うし、また今回は学会から4-5人しか参加しなかった日本人にももっと沢山行って欲しいと思う。

 とりあえず終了。大学もちょうどこの期間バカバカしい「ハシカ休講」で休みだったのでギャップ無く戻れた。また多忙な毎日が待っている。
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