2016.01.19

【国立大学改革】いくつかリアクションしておきます。

TwitterやFacebook上で直接議論することはしません。不毛だし。裏で色々勝手に言っているだけですからね。

一つめは前のエントリーで書いたことに対するFacebook上でのネガティブな反響についてです。

たとえばこういうの…。

>うーん…「国立」大学は運営費の半分は税金投入されてるのにねえ。
>それを「大学は教員と学生のもの」って…職員は入らんのか…
>そして、こういう主張が社会で共感されているとは驚き。
>そんなに好きにしたければ、自分たちで資金集めて
>自分たちの好きなようにできる大学を作ればいいのに。
>そしたら誰も文句言わない。なぜ「国立」にこだわるのか。
>国の関与が嫌なのに、国立にこだわる理由が不明と言えば不明。

「国のものなのに、単に雇われている奴らがごちゃごちゃ言うな。嫌ならやめろ」とでも言いたいのか?

こっちの方が「驚き」です。まあ、こういう人たちはよく居るので、もはやそれほどは驚かないですけれどね。

大学も学校も「株式会社」のようなモデルでしか考えられないから、こういう意味不明の発言になるのですね。

「国」が大学のオーナーで、経営方針もオーナーと社長が決めるのが当たり前。そして株主は俺たち「国民」。(俺たちの)税金で雇用されているだけの者はごちゃごちゃ言うな…。嫌なら自分で会社=大学作れ。ブラック企業のオーナーとかがいかにも言いそうですね。確かに「法人化」というのは、株式会社をモデルにしている法改定でした。だから、労働基準法が適用され、教職員は社長にあたる学長をトップとする「国立大学法人」の雇用者という形にされている。学生とその保護者が「顧客」。教育や研究は「業務」で、したがって研究内容や教育方法についても学長があれこれ口を出すことができる…と、まあこういうモデルなわけです。これを根拠に「学長のガバナンスの強化」とか、「意向投票の廃止」とかいう暴力がまかり通っている。

そして、こういうモデルを大学に適用するのは完全に間違っていると私はずっと言っている。

たとえば、慶應義塾大学というところには金子勝というガチガチのマルクス主義経済学者と、竹中平蔵という小泉構造改革のブレインだった新自由主義経済学者がいる。これをマルクス主義は反政府的だから発言させないとか、新自由主義者はムカつくから首にするとか言ったら、それはもはや大学とは呼べない。学問の自由というのはこういうことを言うのだ。大学は多様性を失ったらいけないというのはこういうことなのである。大学教員が時の政府におもねった発言しかできなくなったらもうおしまいだ。

ちなみに前回問題にした福岡教育大学では、授業中に「安保法案反対デモ」の「安倍はやめろ」コールを学生に言わせた先生が(オチは「学長もやめろ」だったらしい)、学生のTwitterから問題になり、何と執行部によって停職処分にされている。もはや、こんなところは大学の名に値しないと思う。他の先生たちはどう思っているのだろう?

たとえばこれが逆だったらどうだったのだろう? 授業で安倍内閣を絶賛したり、大学の入学式で君が代を歌うのは当たり前だという話を授業でした先生は「処分」されていただろうか?  

どちらも教員が自分自身の思想として語っているのであれば、たとえそれで不愉快な人が一部いたとしても「処分」の対象にしたりすべきではない。それをたとえば単位の条件にしたり、賛同しない学生を差別したりすれば問題だろうが、教壇では教員は自由に自分の考えを堂々と述べる権利があるのだ。学生はそこから自分で事の是非を考えればいいのである。

「学習指導要領」に完全に準拠することを強制されている小中高校と大学はそこが根本的に違う。

中には大学にも「指導要領」的なものを作るべきだと主張する人たちもいることはいるが、そんなことになってしまえば大学はただの「教習所」になってしまう。自ら考える力など身につくはずはないのだ。

話を続ける。

言っとくけど、運営費の半分ではなく「ほとんど」すべてが国の税金です。「国立大学」ですからね。それがどうした?

「国」や「国家」という概念は、現在政権を握っている政党や国会議員の集合体よりももっとずっと上のレベルの抽象的な概念です。「理念型」と呼んでもいい。今の政府や政権が言っていることに従わないことが理念としての「国」に従わないとか、愛していないということではない。なぜ国立大学があるのか? それは知識や学術の最高機関をきちんと運用できないような国はいずれ滅びるからです。政府が間違ってる時にそれを糺すことができないような大学など存在する意味がない。

もう一つ。職員は教員と学生の共同体としての大学の運営をスムーズに機能させるために手伝ってくれるありがたい人たちです。その意味ではもちろん「仲間」です。ですが、「学知の場所」としての大学の主たる機能それ自体には直接は関わっていません。ですから、大学は学生と教員のものと言ったのです。

最後に、「自分たちで資金を集めて自分たちの好きにできる大学を作ればいいのに」ということに関してですが、私立大学を含めて、大学設置基準法に適合し、設置審議会で承認されなくては「大学」として認可されません。そして「大学」である限り、文部科学省の支配からは自由にはなれません。私の知る限り、むしろ私立大学の方が文科省の顔色を窺って、ガチガチで窮屈な状況に陥っています。つまりはまともな「大学」などどこにも存在し得ないのです(だから、私塾しかありえないのかと嘆いているわけです)。

これを脱け出すには、国の大学に対する政策を変えなくてはなりません。そのためには、まずは国=文科省のこの数十年間の大学改革がいかに根本的に間違っていたかということを訴え続けなくてはなりません。私が言っているのはそういうことです。

たとえば、昨日(1月18日)公表されたインターネット上のメディア「nippon.com」に文科大臣補佐官の鈴木寛氏による「人材育成・日本の大学の何が問題か」という記事が出ています。

#しかし、この記事のタイトル、凄いね。日本の大学の現場の方が問題なのであって、文科省はその問題解決に努力してきたとでも言いたいのか? 文科省の大学改革政策の方がずっと問題なのに...。

この記事で鈴木氏は、文科省のこれまでの教育政策は15歳の学力向上など成功したものも多いが、大学政策では失敗したものもあると述べ、その例として法科大学院とポスドク問題(だけ?)を挙げている。また理工系人材づくりもノーベル賞受賞者を多数輩出するなど成果を上げているが、ドクター進学率の低下など今後の不安要素も高い。さらに文系教育に関しては長い間貧弱なままで放置してきたことのツケを何とかしなくてはならない。緊急に必要なのは文系のST比(教員一人あたりの学生数)の適正化である。またアメリカに学んで一層の「戦略的大学経営モデル」を確立しなくてはならない…大体こんなようなことを言っている。

全くピントのずれたことを言っていると言うしかない。少なくとも91年の大学設置基準の大綱化以降の文科省による大学改革はそのほとんどすべてが間違っているし、失敗しているというのが、ぼくの認識である。ST比の適正化などよりも、やるべきこと―というよりも、ただちにやめるべきこと―は無数にある。

だいたいこの鈴木という人は独法化の時に反対していたはずなのに、いまや文科省によるソビエト的な大学支配の総元締めみたいなことをしていて、恥ずかしくはないのだろうか?

まず、アメリカ型の大学経営モデルを導入すればよくなる(はずだ)という思い込みからして間違っている。会社経営だってそうだが、グローバルスタンダードを導入すればそれでよくなるというのは幻想にすぎない。90年代に日本の会社を合理化すると言って、さまざまなアメリカ流の経営改革を持ち込み、元々の企業風土を破壊して、組織をぐちゃぐちゃにしてしまった反省をそろそろすべきなのではないか? アメリカと同じことをしても、二番手、三番手どころか世界の五番手、六番手、あるいはそれ以下に後退するだけということを学んでいないのだろうか。そうじゃないと海外で対等に戦っていけないなどと言うが、その前に国内の教育環境や大学風土がめちゃめちゃに破壊されてしまう。自分たちの持っているいいところを伸ばしていこうとせずに、「アメリカ流」の経営改革によってそれを立ち直れないまでに破壊してしまうことが全然わかっていない。何よりも現場のやる気を著しく失わせてしまったのが、こうした文科省流の「大学改革」なのではないか?

こうして、五流・六流のアメリカ型大学のようなものを日本に沢山作り出そうとしているだけなのだ。日本各地、固有の地域性に基づく独自の文化を育んできたさまざまな地方大学に、まるで大型ショッピングモールにような(しかも規模はけっして大きくせずに)一律の経営手法を押し付けて改革しようということがそもそも間違っているのであって、文科省は地域や大学の主体性を認め、多様性を破壊する大学改革政策をやめるべきなのだ。それは一律に「地域創成学部」とか「地域デザイン学部」とかいうフォーマットを押し付けることとは根本的に違う。とりあえずは、あなたたちが余計な「改革プラン」を全部取り下げてくれるのが現在のところでは最善の策である。度重なる干渉や押し付けられた「ミッションの再定義」によって、どれだけ現場の教員や学生たちの努力が踏みにじられ、めちゃくちゃに混乱させられているかということを全く分かっていないのではないかと思う。

「大学人は、政府がそうした議論の場を設けるのを、待つのではなく、自ら論点を洗い出し、世論を啓発し、熟議を起こしていく必要がある」などと書いているが、全くどの口で言っているのかと呆れてしまうしかない。自分たちの政策に都合がいい御用学者や財界人だけで審議会を構成するような「政治主導」が続いていく限り、何も変わるはずがない。せめて、理系の学長経験者や財界人だけではなく、まともな教育哲学者や教育社会学者たちを入れて、大学教育に関する歴史的、文脈的な議論から始めていかなければ、もはやどうにもならないと思う。企業の論理を大学に持ち込んではいけないのだ。第一、百年以上続く企業なんてほとんどないが、大学はうまく維持できれば数百年は続く息の長い組織なのである。それらは全く別種のものだ。文系の研究というのもまた、場合によっては五十年、百年の時間をかけて初めて成果が生まれるものもあるのである。すべてにおいて、視点が短絡的過ぎると思う。

今日はとりあえずここまで。

2016.01.16

全国の国立大学をこのまま国(文科省)の奴隷にしていいのか!

さて、どこから書き始めようか? ここでは久しぶりの「国立大学改革」の話である。

とりあえず、このblogから生まれた角川新書『文系学部解体』が12月10日に公刊され、全国大学生協の新書部門1位になるなど沢山の人に読まれているようである。全国の大学教員から共感や励ましの声が送られてくるのはある程度は想定内のことだったが、意外だったのは大企業の人事担当の役員の方はじめ、企業や経済界からの好意的な反響が多かったことである。中には是非室井先生のゼミ生のような学生を取りたいというようなものまであった。残念ながらぼくはゼミという制度があまり好きではないので、うちのゼミ生はほかのゼミを落ちこぼれたかなりダメな子ばかり(笑)なので、あまりご期待には添えないと思う。


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それはともかく、この本を執筆してから現在までの短い期間に、全国の国立大学からはさまざまな不協和音が伝わってくる。

ひとつは学長選出をめぐるトラブルだ。

滋賀大学や福岡教育大学では、学長選考会議が指名した4月からの次期学長に対しての不満が渦巻いている。

滋賀大学の場合は教職員による意向投票で得票率が一番低い、前監事だった人(監事は文科省が指名することになっている)が学長になった。かなりあからさまな人事である。

福岡教育大学では、前回やはり下位の候補者が学長になり、そこで教職員の意向投票自体が廃止されてしまった。そして次期学長として学長選考会議が(勝手に)決めた学長の選考プロセスに関する情報開示請求が行われている。この大学では現学長の振る舞いに対して教職員からさまざまな不満の声が出ているようだ。

さらには岡山大学の学長による薬学部長と副学部長の強引な解雇が問題となって法廷で争われている。これは、医学部の論文不正に対する告発を行った薬学部長・副学部長を別件で処分したという事件で、学長が医学部出身であることから不正をもみ消そうとして、いわゆる学長のガバナンス、強化されたリーダーシップを濫用したのではないかと批判されている。

元々、学長はその大学の教職員の投票によって選出されてきた。2004年に国立大学法人化が行われて以来、外部のメンバー(過半数入れなくてはならない地元の財界や教育界の代表)を含めた経営協議会と学内の教育研究評議員会から選出された委員による「学長選考会議」を組織して、そこが指名する制度に改定された。その意図は意向投票で選ばれた学長では、強力なリーダーシップや経営力を発揮できないからということだったのであろう。

それでもこれまでは95%以上の国立大学では教職員の意向投票を行っており、学長選考会議の決定も概ねその投票結果を尊重したものてあったのが、とうとう意向投票を完全に無視した恣意的な学長選びが始まったのである。今後このような大学がどんどん増えてくることが予想される。それにしても官僚出身の前監事が指名された滋賀大のケースはかなりひどいと思う。この馬鹿げた学長選出のプロセスは法律に書き込まれてしまっているので覆すことは難しい。だから福岡教育大学のように「情報開示請求」しかできないのである。もっとも法律にはないが、勝手に教職員がリコール請求をすればいいとは思うけど。

もちろん、「民主的」に選ばれたこれまでの学長が常に良かったかと言えば、必ずしもそうは言えない。全国の国立大学の学長の経歴を見れば一目瞭然であるように、医学部出身や工学部出身の学長が圧倒的に多いのは、教員数が多い学部から自動的に学長が選ばれてきたという流れがある。少なくとも、これらの人々は大学の内部をよく知っている人たちであったのは間違いないが、それでも岡山大のように文科省が推進する「学長のガバナンスの強化」を履き違える人物が今後も出てくるにちがいない。ましてや、大学のことを知らない官僚出身や経済界出身の学長が、今後は乱発されてくることも懸念される。これらの事件はこうした暗い未来を予感させるものである。

さらに平成28年度から始まる「第三期中期目標中期計画」の概要がだんだんと明らかになってきた。

【あまりにも、ひどすぎる!】

法人化と同時に、各国立大学は六年ごとに「中期目標中期計画」というものを策定して、その達成度合いによって評価が行われることになっている。これらは最終的には文部科学大臣名で公表されることになっている(だから、全然大学の独自性などは発揮できない)。今年で第二期が終わり、来年からの六年間「第三期」が始まるわけである。もともとホップ・ステップ・ジャンプという三段階モデルで、文科省の国立大学改革がステップアップするとされていたのだが、概要を見ただけでこの「第三期中期目標中期計画」が国立大学の首を完全に絞め落として死に追いこむようなものであることがわかる。

そこには、昨年6月に明らかにされた(実態としてはその二年近く前に既に策定されていた)「国立大学改革プラン」を、具体的な数値目標をつけてすべて実行することが求められている(今更ではあるが、これは各大学が自主的に作るものではなくて、最初から文科省によって大筋決められて押し付けられているものなのである)。

国立大学に突きつけられた改革プランは以下の8項目であった。


1.「ミッションの再定義」を踏まえた組織改革
2.各地域における知の拠点としての社会貢献・地域貢献の推進
3.国境を越えた教育連携・共同研究の実施や学生の交流等、グローバル化の推進
4.学長等を補佐する体制の強化等、ガバナンス改革の充実
5.年俸制・混合給与の積極的な導入など人事・給与システム改革の推進
6.法令遵守体制の充実と研究の健全化
7.アクティブ・ラーニングの導入等、大学教育の質的転換
8.多面的・総合的な入学者選抜への転換

新聞などのメディアでは、すぐに目につく1, 2, 3, 4などを中心に報じられたが、これらの項目に関する目標を書き込むのはもちろんのこと、他の項目に関してもきわめて細かい指示が与えられている。

とりわけ5.の人事システム改革に関しては、

● 年俸制の導入を10%を目標値として実施すること。
● 混合給与制(クロス・アポイントメント制度)を推進する。*要するに別なところから給料をもらえということ。

などについて書き込むことが求められている。

そもそもが人件費の配分が大幅に不足しているのだ。

平成28年度の各大学への運営費交付金は取り敢えず前年並みということが発表されているが、恒例の追加配分が行われないということで交付金額はますます厳しくなっている。
そこに景気浮揚策なのか何なのか知らないが、アベノミクスで好景気になった(??)ということで、公務員の給与引き上げと地域手当の引き上げに関する人事院勧告が出ている。
これに合わせて給料を払うと各大学では既に今年度から赤字に転落することが予想されている。

人事院勧告に従わないという選択を選ぶ大学もあると噂には聞く。
それこそ普通民間の会社であれば収入が減れば当然給与引き下げを考えるだろうが、ここでは逆に上げろと国から脅されているのだ。そのくせ、お金は出さない。

そこで言ってきているのが、この年俸制とか混合給与制とかの導入なのである。五十五歳を過ぎた教員からこの年俸制移行への「肩たたき」が始まるらしい。

それどころか、既に新潟大学などでは「早期退職」志願者の募集が始まっているようである。しかしながら、そうでもしなければとても人件費が賄えなくなっているのだ。

ところが、これだけでは全然足りないのだ。

横浜国立大学では今後五年間に七十名程度の人員削減案が検討されている。もちろん現職教員のリストラではなくて、定年退職者の後任ポストの不補充で人員削減をしようとしているのだが、領域によっては専任教員数が不足して満足な教育活動ができなくなるおそれがある。既に非常勤講師用の人件費が足りなくなって開講できない科目があったり、隔年開講に移行したりしており、どんどん教育環境が悪化しているのだ。これはどこの国立大学でも同じ状況のはずである。

つまりは財務省の圧力で、もう充分な人件費が配分されなくなりますよ、だから給与制度を改革して下さいというわけなのだが、そのことがあたかも各大学が自主的に立てた「目標・計画」であるかのようにさせているところが、何ともグロテスクなのである。

さらにはFDやカリキュラム改善に関してもこれまでに増して細かな要求が書き込まれており、たとえば「ルーブリックを活用したカリキュラム改革」をやれ! と押し付けられている。この「ルーブリック」というのは近年アメリカで開発された教育工学の手法で、どうも政策決定者たちはこれを無理やりすべての国立大学に押し付けたいらしい。とにかく書類仕事を増やすことしか考えていない(ちなみにこの「ルーブリック」という英語の元々の意味は、単なる見出しとかヘッダーとかにすぎないが、もっとめんどくさいシステムである。今、大学関係者が必死に勉強しているようだ)。その他、入試にしても既に手間暇がかかる上にあまり成果がぱっとしないAO入試が無理やり押し付けられており、あらゆることが細かく規定されている。

こんな無理やり押し付けられた「中期目標・中期計画」を達成するためだけに六年間が費やされることになるわけであって、絶望的な気分にならざるをえない。

ああ、そうそう。こんなのもあった。

Late specialization(レイト・スペシャライゼーション)を導入せよ。

何だ、これ? 要するに専門を決めない入試をして、入学後に所属学科を選べるようにしなさいということらしい。

これは九州大学が計画中の文理融合の「新創生学部」案や新潟大学が計画中の「創生学舎」のようなモデルをどうやら全国の国立大学に広げようということらしい。さんざん文理融合型の大学院を作って失敗を重ねた末に、今度は学部にまでわけのわからない文理融合を持ち込もうとしている。それも全国の国立大学にまで広げようとしているのだ。本当に一体誰がこんなにくだらない「改革プラン」を作ったか、できることなら作ったアホの顔を一回見たいものだ。これらは春には文科省のサイトで公開されることになっている。

そして、我々国立大学の教員は、これに対して何の抵抗もできないのである。抵抗したら、金を打ち切るぞ、という単純だがどうしようもない脅しに屈しざるをえないという情けない状態が現状なのである。

いや、そんな中でも各地で抵抗運動が起こり始めている。

既成の教職員組合には何の期待もできない。だって、上のような状況を百も知りながら「人事院勧告を完全実施して給与をupせよ!」と主張しているような旧態依然とした組合に何を期待できるだろう? どんどん組合離れが進むだけのことである。

普通の学生が、そして組織されていない普通の教職員が抵抗の声を上げることが唯一の希望の灯火なのだ。そして、お互いにこうした小さな抵抗の火をつなげていくようなネットワークを作っていくべきなのではないかと思う。

新潟大学では、廃止される教育学部の新課程や研究科の学生たちが大学執行部とのやり取りを続けてる。この学生たちの主張は正当なものだ。

=> 新潟大学教育学部有志学生の会のページ参照。

また、ちょっと遅かったけれど横浜国立大学の学生たちもまた行動を始めた。
#言っとくけどぼくが裏から扇動したわけじゃないからね。

=>人文社会系学部の縮小に抗議する集団行進

今更ではあるが、大学は教員と学生のものである。

教員と学生の意志を踏みにじるような、こうした全体主義的な大学破壊に対して、大学に関わる者たち一人ひとりが抵抗の意志を示していくことはとても大切なことなのではないだろうか?

また長くなってしまったので、ひとまずここで筆を擱きます。

2014.10.08

国立大学がいま大変なことになっている(その3)

前のエントリーに対して、身近な人たちや外の世界の信頼できる人たちから共感のメッセージを多数頂いた。だからと言ってそう簡単に解決されることではないのだが、同じように現状を憂いている人たちが沢山いることが分かって勇気づけられた。

それに対してネット上の表側で返ってくるレスポンスのほとんどが否定的なものばかりである。別に同意を求めているわけでもないのだが、前回もそうだったが、たとえば「はてなブックマーク」に返ってくるコメントは相変わらず邪悪で罵倒に近いようなネガティブなものが目立っている。

まあ、分からない人には分からないのだろうなと思うしかないのだが、しかしこういう脊髄反射的なレスポンスをネットで返してくる人たちは一体どういう人たちなのだろうかと考えこんでしまった。彼らは何に対して苛立ち、何に対して怨嗟の声を向け、誰に向けてコメントをしたがっているのだろうか? まず、ネットというものが元々そういう性質(匿名であるがゆえに攻撃性が露わになりやすい)を持っているということはもはや明らかだが、彼らは対象についてあまり深くは考えようとしないで、一瞬の印象だけで何かを決めつけるレスポンスを書き込んでくる。そのことに関して自分が判断する権利を持っているという一種の全能感のようなものを行使することに満足しているのだろうか? 安易にぼくが反応して論争に乗ったり、あるいはそこが炎上したりすればそこにしばらく留まり、そうでない場合には次のターゲットを探し求めて移動していく。いずれにしても、ぼくが書いている問題それ自体や、ぼくがどういう人物であるかということに関しては基本的には全く関心を持ってはいないようだ。

彼らのコメントをまとめてみると、要するに、

「(俺が知っている)国立大文系なんて全く社会の役に立たないで遊んでいるだけなのだから潰されて当然だ」<=ぼくがどこの誰で、具体的に何をしているのかは知らないし、また知る必要もないが、どうせどこだって似たようなものだろうと決めつけている/その判断を下せる側にいる自分に優越感を感じている。

「税金でまかなわれている国立大学の行く末を決めるのは納税者(俺たち)だ。」<=(俺たち)納税者(?)という多数派の中に自分の身を置いて、そんな自分には文系の学問など何の役にも立たないと言っているようだ。自分を(ちょっと信じがたいことだが)「国民」と言う人たちもいる。自分を多数派側だと考えたがり、どうも現在の政権を大多数の納税者の意志を反映しているものと思いたがっているフシが見える。また、国立のみならず私立大学も多額の税金からなる運営補助金によって経営されているのだが、とりあえず私立大学のことはどうでもいいようだ。そもそもぼくたちが給料をもらっているのはそういうシステム全体からなのであって、税金は一旦国費になった時点でどう使われるかは一人ひとりの納税者の意志とは全然関係ないところで動いているのだが、彼らは「俺達納税者の税金でまかなわれているくせに生意気だ…」と言いたいらしい。少なくともぼくは「税金で食わしてもらっている」のではなくて、もらっている金銭よりは明らかにそれを上回る労働をしているつもりだ。前にも書いたように、いまやとても安いよ。

「論文も書かず? 外部資金を集めようともせず、業績もない奴に限って、そんな社会性のないことを言う」と決めつける<=調べたのか? と言うだけにとどめよう。ホント、日々どんだけ苦労しているか知らないくせに…。

「成果を示せない以上、リストラされるのは当然」<=教育の成果はどのように数値化できるのだろうか? 授業アンケート? そんなのはどこでも「成果があった」という結果しか出ていない。研究? 中身を数値化することなどできるのか? 著書の売上? 数値化できないものがあるということを認めず、すべてを数値化しようとする手続き型合理性の支配こそがもっとも問題なのに。

「大学人なら対案を出せ!対案のない批判は無効だ」(対案などいくらでもあるが、blogやネットで発表したところでしょうがない。そもそも現在の政府の政策に反している対案を採用される可能性もないところで言っても無駄である)。<=「対案がない批判は無効だ」というのは、橋下大阪市長の常套句だが、行政責任者でもなく政策決定者でもない相手に向けるのは不適切だし卑怯だと思う。

「おっさんの気持ち悪いプロフィール写真をやめろ!」<=ほっとけ!

「国は金がないんだ。俺達は前からもっと悲惨な状況にいる。これまでぬくぬく生きてきた報いだ」<=怨嗟を向ける相手を完全に間違っている。自分たちの不幸の原因をなぜかこちらに向けている。これはバブル世代や団塊の世代に向けられる怨嗟にも共通している。君たちに富を再配分しないのはぼくでもなければ、彼らでもないというのに。

この人たちの発言動向は「ネトウヨ」と呼ばれる人たちと共通している。別に左翼でも同じことだ。反原発や反安倍内閣の立場に立つ人たちの中にだって同じような人達もいる。彼らは現状の自分の生活や政治に不満を抱いている。そして、どうやらその原因を既得権者、貯金を貯めこんでいる先行世代、中国や韓国などの外国、左翼インテリ、共産党、日教組などに見出そうとしているようだ。実際は生産拠点を海外に写している大企業や金融・経済界、新自由主義の恩恵に浴している(た、かつての)ホリエモンのようなヴェンチャー企業家たちこそが富の再配分に不均衡をもたらした彼らの敵のはずなのだが、見事なくらいに敵の姿を見誤っており、ナショナリズムと日本人(=主流派の国民、納税者)であるということを自己を強化する鎧のように思い込みたがる錯誤の中にいる。とりあえずは攻撃したい相手を探しているだけだ。安倍首相がなぜ再登板したかと聞かれて「インターネットの声に勇気づけられた」と言っているように、いまやこうした勘違いしたナショナリスト=ネトウヨ=新自由主義の被害者たちが世論を動かすまでの大きな勢力になっていることは否みがたい事実である。

宮台真司は、2000年のアメリカの大統領選において知能指数がきわめて高いと言われたゴアに対して、きわめて知的能力が低く知能指数100以下と言われたブッシュがインターネット上の多数の支持を集めて当選したことを例にあげて、何人もの家庭教師をつけても東大には入れず、ようやく成蹊大学に入学できた安倍を、だからこそ俺達が支持するというインターネット上の勢力(B層の大衆)が安倍を総理大臣にまで持ち上げたのではないかと指摘し、エリート嫌悪、感情劣化による衆愚政治が続くことは避けられないと言っている(KADOKAWAのウェブマガジン「ちょくマガ」(2014.9.30)における発言より)。かつてのような優秀なエリート層と、四年制大学を卒業した教養と知性をもちさらに上を目指そうとする層の厚い中間層の大衆が、この数十年の新自由主義経済の中で解体され、教育の機会も満足に与えられず、非正規労働者の群の中に埋没している、彼の言う「感情劣化したB層」の大衆を生み出し、インターネットで参加機会を与えられた彼らと、彼らの感情的な世論を誘導するメディアや広告代理店によって政治が動いているのではないかというような話である。相変わらずソーシャル・マーケッティング的な社会のマッピングであって、その論調には余り共感はできないが、しかしながら確かに中間層と呼ばれてきた層が完全に解体されて、一部の富裕層と数多くの低所得者層の格差が広まりつつあるのは世界的に見ても共通している現象だと思う。ヨーロッパの複数の国で極右政党や排外主義的勢力が拡大しているのも同じ流れとして理解できる。

だからこそ国立大学が必要だし、文系教育、あるいは広い意味での「教養」が必要なのではないかと思うのだ。崩れかけている日本の優秀な中間層の崩壊をさらに進めて一体どうしようというのか? さらに言えば国立大学の授業料を大幅に値下げするかあるいは無料化する政策こそが、この国の民主主義を正常に戻すためにも必要なのだとも言いたいのである。授業料が高過ぎる。ヘイトスピーチに流れる人々や、みんなが反対している原発再稼働を安倍が進めているからという理由だけで支持する人々の姿を見ていると益々そう思わずにはいられない。

一部の人に批判されたように、確かにかつてのような「高等遊民」的で社会から隔離された「秘密の花園」に対するノスタルジーと取られるようなことを書いたことは少し反省している。だが、それでも広い意味での批判的なリテラシー教育の機会をできるだけ多くの人に提供することは、この国の未来にとってとても重要なことであると思えるのだ。比較的安い授業料で、また一部のマンモス私大のようなマスプロ教育ではなく、学生一人ひとりと密接に接することのできる国立大学のいまの環境が失われることによって、この国の高等教育が被ることになるダメージは単なる効率性追求の政策によって得られる一時的な効果よりもはるかに大きいのではないかと言いたいのである。

知は力である。知識と教養を軽んじ、知識を効率と競争の道具としてしか考えないような国家に未来はない。現在の苛烈な状況の中でも、人類の歴史とこれまでの文明の流れ、先人たちがどのように思考してきたかを知り、自分が生まれてきた時代を超えた巨大な生命潮流の流れの中に自分が生きていることを知ることは、とても重要なことなのだと改めて言いたい。大学教育は守られなくてはならない。実際に若い人たちの昔も今も変わらない知識に対する純粋な欲求を間近に見ている現場の人間として切実にそう思う。

それでも、きっとまたネットでは罵倒されるのだろうなあ。勉強することができるということは、それでもすごく素晴らしいことであり、ネットを見ているだけよりはずっといいことがあると思うのだけど。

2014.10.03

国立大学がいま大変なことになっている(承前)

黙っているからと言って何も考えていなかったわけではない。

5月15日付けのエントリー「国立大学がいま大変なことになっている」を書いてから、いろいろな人に引用されたり、言及されたりしてきた。

国立大学関係者なら誰でも知っていることだが、一般の人たちにとっては驚くべきことだったようである。

その後、国立大学法人評価委員会が各大学に通知した「国立大学法人の組織及び業務全般の見直しに関する視点」について(案)の発表を受けて、東京新聞が9月2日付けの記事「国立大学から文系消える?」を掲載したり、またぼくの記事を引用した村田哲志氏による10月1日付けLivedoorNewsの記事「国立大学から文系学部が消える!安倍首相と文科省の文化破壊的『大学改革』」が出たことによって、またまたぼくの周辺が騒然としてきた。かと思えば今月号の『現代思想』の特集は「大学崩壊」というショッキングなものだった。だが、ざっと目を通したが大したことは書かれていない。

内田樹さんがツイートしているように、実はもうとっくの昔に国立大学ばかりではなく、新自由主義的な政策を採る政府の「教育改革」によって大学は死にかけていたのである。この二十年間で文部科学省はまさしく内田さんが言うように「『死にかけた大学』しか延命できないようなシニカルな仕組み」を作り上げたのだ。各大学には文科省から出向してくる理事や、産業界や行政から経営に参加する半数以上の経営協議会委員が送り込まれ、もはや大学の内部にも文科省には逆らえない構造ががっちりと組み込まれているのである。今回のことをとってみても、確かに安倍政権になってからその傾向は急速に推し進められてはいるが、90年代の自民党政権や民主党政権も本質的にはちっとも変わらない教育政策を推し進めてきた。それが変わらない限り、この方向性を停めることはできない。ストライキや抗議行動をしたところで何も変化させられないところにまで国立大学は追い込まれている。

前にも書いたように、「民間企業と同じような競争原理を持ち込む」というのが政府と文科省の最初の方針であった。しかし、政府から支給される運営交付金の金額が最初から決まっている国立大学では、横並びの同じような改革しかできない。そもそも改革の方向そのものが中教審の答申や文科省の政策に従うものだけしか認可されない仕組になっていたからである。そこで、文科省は00年代に入って大学振興課や大学改革推進室といった窓口を通して各大学に「競争的資金」を獲得するように求めることとなる。自分たちが気に入るような改革を行う大学にはご褒美で資金を提供するという形によって、各大学の競争を煽ろうとする試みである。代表的なものとしては世界的に通用する研究に対して与えられる数億円単位の「21世紀COEプログラム」(現在はグローバルCOEプログラム:COEとはCenter of Excellenceの略語らしい)と大学教育を支援する数千万円単位のGP(「特色ある大学教育支援プログラム(特色GP)」、「現代的教育ニーズ取組支援プログラム(現代GP)」及び「質の高い大学教育推進プログラム(教育GP)」:Good Practice)などがある。そして他にも沢山このような「競争的資金枠」を作り、運営交付金額の減額分をここで取り戻そうとする「やる気のある大学」だけを選別しようとした。

さらに、文科省は2004年の国立大学の独立行政法人化によって国立大学を「国立大学法人」として民間企業と同じように労働基準法管理下の組織に改変し、運営交付金を毎年減額させながら競争的資金枠を増やしてきており、さらに今回示された「国立大学改革プラン」においては平成28年度には運営交付金を3〜4割に減らし、競争的資金を獲得できない大学には支援を打ち切るという方針を示している。勿論、文部科学省だけが悪いのではない。その裏には年々財政状態が悪化している中で財源を確保しようとする財務省の厳しい要求があるのも事実である(たとえばこのような資料を見ると、文科省が彼らなりに大学を守ろうとしてきた経緯が読み取れるだろう。だからと言って彼らに責任がないわけではないが)。

平成28年度には国立大学への運営交付金を3〜4割に減額する! これはほぼ大学の人件費だけを残して他には一銭も配分しない額になると聞く。もしそうなったとしたら、国立大学はもはや何もすることができず、生き残ることはできない。各大学が必死で「競争的資金」を獲得しようとするのは当然であり、またそれ以外の選択肢は経営陣には残されていない! というのが、現在の国立大学が置かれている状況なのだ。しかしながら、大学改革と言ってもそれは文部科学省が唱導する「改革プラン」に沿っているものでなければ認められない。それがどういうものであるかはこの表を見れば推察することができるだろう。各大学は教職員一丸となってこのような方向性に沿ったお仕着せの「改革プラン」の申請書類を毎年大量に作成し提出しなくてはならない。そうしないとお金が足りなくなるからだ。だが、だんだんそれが習慣化していくと、お金がもらえるような計画書類を作ることの方が先行するようになって、改革の中身や、それが本当に自分たちの大学にとって必要なことなのかどうかというようなことを誰も考えなくなっていってしまう。中身はどうあれ、資金を獲得できなければ何もできなくなってしまうからだ。内田樹さんが言っている「死にかけた大学しか延命できないようなシニカルな仕組」とはまさしくこのようなことなのである。

ここ数年はさらにここに「グローバル人材の育成」とか「大学のグローバル化」という主として漠然とした財界からの要請に則した「競争的資金」の割合が増えてきた。このため留学生の倍増とか、大量の学部学生の海外への短期派遣留学、外国人教員の増員、英語による授業科目の増加などといった、果たして本当に教育の質を上げるのに有効なのかどうかわからない横並びの「改革」を取り入れざるをえない大学が増えている。ぼくの働く横浜国立大学も例外ではない。最近発表された「スーパーグローバル大学創成支援」に採択された大学では今後数年間数億円ずつが配分されることになっているが、結局は今年も落選してしまった。採択された大学と似たような申請内容だったのだが、まだまだ「積極的な姿勢が足りない」と評価されたようだ。元々それなりの努力をしている上にこの資金に応募するために少し無理をして英語による教育カリキュラムなどを導入してしまっているので、今後予算面でますます苦しくなることが予測されるが、それでもこの資金獲得レースから下りることはできないのである。こうして大学はどんどんと破滅の道を転がり落ちていく。

これが深刻なのは、こうした大学政策が単に日本国内だけではないということだ。グローバル資本主義の広がりの中で世界中の大学が似たような形で無理やり競争を強いられている。とりわけヨーロッパの大学の凋落が激しい。手続き型の合理性と、数値だけが重視され、中身よりも形(論文数、引用数、特許数など)だけで評価が行われるというのは、全世界的な趨勢である。したがって本当の問題はグローバル資本主義そのものなのだ。

こんなことを書いていると、同僚たちから非難されるかもしれない。なぜなら、年齢相応にぼくも管理職についており、もし大学が会社であるとしたらこのような内情を内部の人間がさらけ出すことは好ましくないと考える大学教員も少なくないからである。だが、大学は会社ではない。また、いくら形としては独立法人化され労働基準法管理下に置かれた組織であるとしても、教員は通常の意味での労働者ではない(「聖職」だとか言いたいわけではない)とぼくは信じている。自分の思うことや信条を口にすることができないとしたら、それこそ大学と大学人には何の存在価値もなくなってしまうと考えているので、同僚たちに直接の迷惑がかかることでない限り、好きなように発言させてもらう。

しかし、言うまでもなくこのような「改革」が正しいと本気で信じ込んでいる人たちが現実の政策を決めているのも事実である。それでは、それはどのようなものなのだろうか? ちょうどここに格好の材料になる記事があるので、それを読んでいこう。YahooJapnNews10月2日付けで木村正人という人が書いている「世界大学ランキング(1)東大23位死守も、日本は大幅後退」という記事である。ここでは外国人雇用については疑問を呈しているものの、ランキング100位以内に10校を入れたいという文科省がスーパーグローバル大学創成と呼んでいるような政策がは基本的に不可欠であるかのように書かれていて、これだけ読む人は思わずなるほどと納得してしまうのかもしれない。このような論理が政策決定者たちを動かしてきたことは事実であるように思われる。

そもそも「大学ランキング」とは何で、それは何を指標に作られているのかと言えば、主に研究論文数、被引用件数、取得特許数といった数値を中心として作られているのであり、当然のことながら工学系、医学系を中心としている。だから一位がカリフォルニア工科大学であり、スタンフォードやMITが上位に入っているのだ。そしてそのほとんどは英語圏の大学である。最初から英文の論文しかカウントされていないのだから当然である。名前を聞いたことのない大学も多い。ランキングに入っているから素晴らしい大学だということはないし、また学生の立場に立ってみれば、実際に自分がどんな教員や友達にめぐり逢えるかということだけが問題なのだから、何の参考にもならない。根本的なことであるが、なぜ日本の大学がこうした「ランキング」を指標にして改革しなくてはならないのかがぼくには全く理解できない! 少なくとも文系にはもともと何の関係もない話なのだ!

授業を英語化することに関しても、外国人教員の雇用を促進することに関しても、それ自体は良くも悪くもないが、数値目標を定めて―しかも全体の1/3も外国人教員にするなどという極端なものも多い―国際化するなどという改革は狂気の沙汰としか思えない。人文科学や日本史などの授業まで英語で行うことにいったい何の意味があるというのか? 単に日本語能力と日本語による思考能力が著しく低い、そして言語の奥に広がる豊かな文化的広がりに全く触れることなく英語を実用的な道具としてのみ考えるような学生しか生み出さないカリキュラムや教育システムを作り上げて一体どうしようというのか? こういう記事を書いたり「スーパーグローバル大学」とか本気で言っている人たちには全く分からないことなのに違いない。勘違いもここまでくればもはや狂気と呼ぶしかないのだが、政府も文科省も財界も全くそれに気づこうとしないのである。

かつて、ぼくたちが大学に何を求めていたのかと言えば、世の中の趨勢とは離れたところで自由な知性の可能性を極限まで突き詰めることのできる空間であった。考えてみれば蓮實重彦も柄谷行人も、ぼくたちが憧れていた思想家や哲学者、批評家、文学者はみんなただの語学教師や教養部の教員で、大学の評価を高めるとか、資金を獲得するとかといったくだらないことにかかわらないで、世間を気にせずにいられたからこそ自由な仕事ができたのだ。時間を忘れて若い人たちと一緒に思索をめぐらせたり、異なる意見を戦わせたりする自由な空間こそが大学に最も必要なものなのに、この度重なる大学教育改革は根こそぎそれを奪い取ってしまったのである。

大学とは人である。素晴らしい教員と素晴らしい学生は自由に議論ができ、自由に意見を言い合える、実社会からはある程度遮断された空き地のような空間の中でしか育たない。くだらない改革資金目当ての書類作りに忙殺され、何が本当に必要で、何が大切なことなのか、誰も分からなくなってしまったこの国の大学に、再び言うが、もはや未来はない。

2014.06.04

雑感---国立大学がいま大変なことになっている(2…かな?)

 ひとつ前のエントリーを書いてから、色々な人にretweetされたりshareされたりしたおかげで、翌日には10万近くのアクセスがここに集中した(やっぱり内田樹さんにretweetされたのが大きい)。blogのアクセス解析によれば、そのうち半数近くはi-OSやアンドロイドOSからのアクセス―つまりはスマホやタブレット端末からのアクセスである(今回も3行以上書くので、もう読むのはやめてね)。しかし、次の日になれば―まだまだぼくのblogとしては多い方ではあるが―一挙に1/10以下に落ち、さらに3日もすると通常通りに500にも満たないページヴューに落ち着いた。つまり、本当に瞬間風速的なアクセス数の増加が起こっただけのことである。

 以前「ももクロ」についての記事を書いた時もそうだったが、毎日ネットにアクセスしている人たちはその日一日のテーマを決め、集団でさまざまなサイトに一挙に移動し、翌日にはまるでそんなことはなかったかのようにまた違うサイトにごっそり集団で移動する。というわけでしばらく放置してみたので、もう余り多くの人に読まれることはないだろう。それに大学のことはしばらくあんまり書かないしね。

 そうなると、前回もそうだったが、どうしてもこのblogやSNSというネットメディアのことについて改めて考えてしまう。

 あれを書いたことで何かが変わるなどとは思っていない。知り合いはもちろん何人もの学内の人たちからも「読みましたよ」と言われたが、それだからと言って粛々と進められている学内改革が止まるわけでも方向性が変わるわけでもない。どうせみんな文科省のせいにするし、文科省は文科省で財務省のせいにするし、財務省は単なる国費節約でやっているだけで改革の方向性については政権や文科省に任せていると言って責任を回避するだけのことだからだ。活動家の方々は、書いたり話したりするだけでは何も変わらないので、集会やデモなどをなぜやらないのですか? とよく聞いてくるが、そのつもりはない。それはぼくのやるべきことではないと思っているからだ。

 ネットのコミュニケーションの特徴はメッセージの発信者が全く予測していなかったような未知の受信者が(ごく限られた数のコンテクストを共有している仲間内での会話だと思っているところに、まるで居酒屋で他のテーブルの客がこっちのテーブルに突然割り込んで来るように)入り込んでくることである。以前、「これは玄関を開けっ放しにしているだけで、けっして世界に向けて発信しているわけではない」と書いたが、ネットの面白いところも、煩わしいところも、ネットのこうしたコミュニケーション構造から生まれている。「玄関が開けっ放しになっているから、発言には気をつけろ」と言うのは正しいが、けっしてマスコミに書くときのようにすべての人に向けて書いているわけではないし、アクセス数を増やすことで何らかの「影響力」を持ちたいなどと思っているわけでもない。”blogos”などのようにblogをマスメディアのように使おうとする考え方はどうもしっくりこない。

 「人気ライター」とか「影響力あるライター」などという言い方はネットメディアにはどうも似合わない。それは結局みんなが「得をする」情報を得られると思っているだけで、ものごとをじっくり考えることとは関係ないからである。blogやTwitter,FacebookなどのSNSは、できれば身近な人にだけ読んでもらいたい個人的な「つぶやき」や「独り言」であってくれた方がぼくにはしっくりする。だが、時にはこんな風に予期しなかった何万人もの人に読まれてしまう、ということが時々起こるのも、このメディアの構造上仕方ないことなのである。

 「予期していなかった読み手」が入り込むことによって、誤読や取り違え、ショートや断線、炎上や暴走が起こる。ネットはローコンテクストなメディアだから、コンテクストまでは短い文章では伝えきれない。だから、ネットを出版メディアと同じように考えてはならない。とは言え、「禁煙問題」について書いた時にも同じようなとんでもない誤読と暴走が生じて、それできちんと本に書いたらもう少し通じるのかと思って『タバコ狩り』(平凡社新書、2009)を出したのだが、だからと言って、それで誤読が消えたり少なくなったわけではない。相変わらずどうしようもない誤読しかできない人たちが多数居る。こういう人たちは放置するしかない。

 「話せば分かる」というのはもちろん嘘なので、むしろ「話しても分からない」人たちとどうやって共存し調整して生きていくのかということだけが重要なのだが、このハーバーマスとリオタールの論争にもつながり、それこそ養老さんの「バカの壁」にもつながる問題はそう簡単に解消されることはない。なぜなら、自分が正しいと思っていることを暴力的に他人に押し付ける人たちと、これまた時間さえかければ「話せば分かる」という理由のない思い込みに囚われている人たちは、そのどちらもこの「話しても分からない」人たちとの共存ということの重要さを認めようとしないからだ。そして、そのためには「言葉」だけでは不十分であり、肌の触れ合いや視線のやりとりなどを含めた身体的な接触や共感が必要なのだが、近代以降のメディアにはこの側面が欠落しているのだ。「誰にでも分かる」ものなんてありえないか、さもなければきわめてつまらなく無意味なことにすぎないかのどちらかにすぎない。実際、直接会えば解消されたり、あるいはそもそも起こるはずもない対立や争いがネットには多すぎる。

 そもそも既成のメディアだって誤読される宿命からは逃れられないのだ。以前、養老孟司さんが『バカの壁』(新潮新書、2003)という本を出した時に(あれが養老さんの本で一番売れたのは、自分の文章ではなくて編集者が「超訳」的に養老さんの独白を「分かりやすい」文体に書き換えたわけで、本当はそこにこそ「バカの壁」があったと思われるのだが…..)、ほとんどその中身とは関係なくタイトルの印象だけでベストセラーになったのには愕然とした。どう考えてもあれは「バカにはいくら話しても通じない」という中身の本ではなかったからだ。西垣通さんが『マルチメディア』(岩波新書、1994)を出した時にもそうだった。マルチメディアは人から思考力を奪い、僭主政治に流れやすくなる(という今のネット時代からすると極めて正鵠を射た)きわめて悲観的な見通しを述べたこの本は、「マルチメディアで世の中はどんどん良くなる」というほとんど正反対のメッセージとして受け取られた。

 要するに言葉というものはけっして正しく伝わるものではないのである。それは宿命的に「誤読」されるのであり、しかも読み手はそれが誤読であることに気づかない。それでもたとえ1~2割程度の少数でも、正しく読み取ってくれる人がいる限りあきらめることはない(もちろん、あと1割程度の予想もできないような「創造的な誤読」をする人たちに対してもそれを伝える価値はある)。

 最近のジャーナリズムが全く信用できないというのは本当のことで、とりわけ2001年の「9.11」以降はまるで治安維持法の時代のように、いわゆる「国益」に縛られた偏向報道がごく当たり前になってしまっている。言うまでもないことだが「3.11」以降の原発事故やその後の放射能汚染問題、原発再稼働問題、憲法改正問題に関しては、テレビや新聞が全くジャーナリズムとしての機能を果たしていないことに唖然とするばかりだ。佐村河内さんとか小保方さんとか、別に誰にも迷惑をかけていない人たちをバッシングしている裏では、とんでもない法案とか条例とかが勝手に作られていて、マスコミはほとんどそれらを報道しないという事態がもう20年近くも続いているので、もうそのこと自体には不感症になってしまっている。

 人間の作る世の中の仕組みは基本的にほとんどすべて間違っているというのが、ぼくの中にはずっとある。「失われた20年」などと言うが、そんなのはデタラメだと思う。結局戦後70年のすべてが間違っていたのだとしか思えない。そう考えると、基本的にほとんどが間違っているのだから、一つ一つのことにいちいちこだわっていては生きられない。そして、それでも間違っているという認識をずっと持ち続けることは結構大変である。ともすると、間違いが無数に重なりあった状態が当たり前になってしまって、自分が間違っていることさえもいつのまにか分からなくなってしまうからだ。間違わないというのが最良であることに決まっているが、それが不可能である以上、とりあえず重要なのはいま自分たちが間違ったことをやっているという自覚を持つことである。それは自分たちが「間違っていない」と主張する人たちの側にはけっしてつかないということだ。こうした「側(がわ)の論理」からできるだけ自分を遠ざけることが大切なのである。

 だがそのためには、現状から目を逸らすことなく過たず認識しなくてはいけない。たとえ、現状において自分が間違ったことに関与してしまっているとしても…。だから、ほとんどすべてが間違っていても少しずつ間違いの数が減っていけばそれでいいのだが、時代の流れによっては取り返しがつかないほど間違いが積み重ねられてしまうこともありうる。今がたまたまそんな時代なのかもしれないが、それでもどちらにしても前にも言ったように、基本的にはどの時代もダメなのだからあきらめる必要はない。

 大学がどんどんダメになっていることが事実だとしても、それでは昔は良かったかというとそれもまた疑わしい。ぼくたちの頃は、まだ欧米の学問を盲目的にありがたがり移入することばかりが文学部の仕事だと考えられていた。それが国家の成長にとって必要だと考えられていたから放置されていたにすぎない。仏文とか独文とかに区分けされ、外来の文物を輸入するだけで事足りた時代と比べると、今の方がまだしもマシな部分は確かにある。「学問」という砦に立てこもったり、そこに寄りかかって生きたりすることはもはや難しい。だが、効率や短期的な成果ばかりを追い求めるようになるのは、少なくともこれまで長い時間をかけて蓄積されてきた知的な積み重ねを無にする自殺的な行為にほかならない。

 要するに大学は今も昔もずっと間違っていたのである。だが、ひとつだけはっきりしていることは大学は社会の要請に対しては中立であり自由でなくてはならないということだ。学長と教員の関係は、けっして経営者と従業員の関係になってはならない(こんな基本的なことさえ、最近は分からなくなってしまっている人が増えてきている)。学生の学びの質が、その時の政権や権力の意志によって制御されたりしては絶対にいけない。自由に考えるとは、自分がいかに不自由な状態にあるかを認識することからしか始まらない。そういう意味で、一人ひとりの教員と学生は思想の自由、学問の自由を保ち続けるべきであり、全員が国策や学長の意志に従わなくてはならないような大学はもはや大学ではなく、工場か、さもなければ軍隊にほかならない。教員がたとえ極右思想の持ち主でも、極左でもアナキストでも、その両方の存在を認めることができるのが大学の価値であり、社会や直接的な国家の利害からは距離をとった「空き地」のようなものでなくては、大学が存続していく意味がないと思う。

 但し、そういう時代はこれまでもなかったわけではないし、大学には所属せずに自由に考えることのできる人たちがいなかったわけではない。そしていま大学教員にできることは、そういう「穴」や「空き地」を、こんなになってしまった大学の中に自分たちの力で作り、確保していく努力を続けることだと思う。もはや制度に守られたり、制度が保証してくれる場所などはどこにもない。一人ひとりの教員が(そして学生たちもだが)大学とは何かをもう一度考え、自分たちで本来の大学を自分たちの周りに作っていくことしかないのではないかと思う。そして、本当にそれができなくなって、大学を去らなくてはならなくなったとしても、それならそれで自由な「大学」を既成の大学の外側に作っていけばいいだけのことである。

 理系学部になるのがいやなわけではない。そもそも歴史的には何の根拠もない理系/文系の区分けを内側から解体していけばいいだけの話である。そして、どんなに社会が変わっても若い生き物である学生たちは自分たちをがんじがらめに縛り付けている枠組みを乗り越えていく力を失わないだろうし、失うはずがないとぼくは思っている。そう思っている教員と学生さえいれば、それがたとえ10人程度の人数であったとしても、大学は守っていくことができるのだ。その限りにおいて、大学はけっして死なない。

 あれ? やっぱり少し熱くなって大学について書いてしまったが、まあ今日のところはこのくらいでやめておこう。
 いま、ちょっと他に面白くなりそうなことがあるからね。

2014.05.15

国立大学がいま大変なことになっている

 新聞やテレビなどであまり報じられることはないのだが、現在国立大学は安倍内閣による大変な「改革」の波に曝されている。

 「スピーディな意志決定」を売りにするこの「ヤンキー政権」は、自民党が過半数を握っているこの時期に一気に彼らの言う教育「改革」を進めるつもりらしい。

 ろくな議論も反省も洞察もなく「気合さえあれば何でも解決できる」という斎藤環が言うところの社会の「ヤンキー化」は、憲法解釈の変更ばかりでなく、ついに大学教育の現場まで飲み込もうとしているのだ。その戦略的に畳み掛けるような政策の押し付けはある意味見事ですらあるが、根本的に間違っている政策なので、これによって国立大学、もしくは日本の大学教育全般が受けるダメージも半端なものではないだろう。元々腐りきっていてかろうじてふらつきながらも踏ん張っているような日本の国立大学が、これで最後の支え棒を奪われて崩壊してしまう危険性も高い。

 ひとつはこれである。

 学校教育法と国立大学法人法の改正だ。既に閣議決定されたこの法案は、すんなりと国会を通過して来年の4月から施行されることになっている。各大学の教職員組合などを中心に反対運動もいくつか起こっているがそのこと自体がほとんど報道されていない。

 これによって、教授会からは大幅に権限が奪われ、人事権もすべて学長に委ねられる。経営協議会も外部の委員を過半数入れなくてはならないことになる。

 産業界から「経営のプロ」を招き入れ、大学教育の民営化・効率化を通して「グローバルな競争力」を高めるのがその目指すところらしい。

 すべての「ガバナンス」を学長に集中させるとなると、国立大学の営利企業化、あるいはブラック企業化を危ぶむ声も出てきそうだが、実はそうではない。

 こんなに権限を集められた「学長」はとてつもなく不幸な人なのだ。あるいは、とてつもなく頭の悪い人でもなければ、これからは学長なんて務まらない。なぜなら国立大学がこれからやらなくてはならない「改革」はあらかじめ政府/文科省によって最初から道筋が決められているからだ。権力が集中させられた「学長」や経営陣に求められているのは、政府が決めたこれらの「ミッション」を忠実に履行することにすぎない。これをうまく成功させられなかった学長は責任を取って辞任することを求められるかもしれないが、ミッションを決めた文科官僚およびその事業をアウトソーシングされたどこかの総研(いまや政府の仕事はほぼ金融系などの総研にまるごと委託されている)は一切責任を取ることはない。その頃には退陣してしまっているだろう現在の首相や閣僚も同様である。誰も責任を取らないままにすっかり廃墟化した大学の死体だけが残るのではないだろうか? まあ、その頃にはぼくももう現役ではないだろうが……。

 だから、実はこの法改正に対する反対運動もピントがずれている。問題は大学の自治や教授会の自治の破壊などではないのだ。なぜなら、そんなものはもう20年前にとっくの昔に破壊されている。国立大学が政府や文科省の言いなりの奴隷になるという基本的な流れはこれまでもこれからもちっとも変わらない。(ちなみに僕は電子版の署名運動という手続きは信頼していませんのでこれに電子署名はしません)。

 昨年度6月に閣議決定された「国立大学改革プラン」に従って、呆れるほどスピーディに平成25年秋にはほとんど決定された「ミッションの再定義」によって各国立大学や各学部が目指すべき「ミッション」が、文科省によって一方的に各国立大学に通達された。「各大学との意見交換によって」と書かれてあるが、実際にはそうではない。文科省からすでに文言がほとんど書き込まれ、自主的な数値目標だけが空欄になった「ミッション」が一方的に各大学に突きつけられたのである。あまりに迅速であるために国立大学の教職員が唖然としているうちに、続く矢が次から次へと飛んできた。たとえば、これ。

 「ミッションの再定義」に基づいて改革プランを申請した大学には補助金を与えて(最初に東大・京大といった強化大学が指名され、うちのような弱小国立大では第三次補正予算で2月末という年度ぎりぎりの時期に示された)、それを遂行することを強く求める。一般運営交付金が毎年縮減されているので、国立大学はこのような補助金なしには生き残れないようにされている。横浜国立大学の場合、3億数千万円の補助金を毎年与えられここに書かれている「ミッション」を迅速に遂行するように求められた。逃げ道はどこにも残されていない。
 
 この表の2,3,4には埼玉大学、千葉大学、横浜国立大学と関東一円の地方大学が並んでいるが、文科省がこれらの大学に求める「ミッション」は共通している。
つまりは理工系か医療系に力を注げということだ。実際、文科省の担当者からは多数の私学がある神奈川県では、教育コストがかからない文学部系は私学に任せて、理工系に集中させないと税金を投入する意義を問われると財務省から言われているとの発言があったそうで、その結果ぼくたちが所属している「人間文化課程」は、実態は全く異なるのに単なる教員養成系の「新課程」と一緒くたにされて「廃止」と告げられてしまった(リンクの後ろの方に書いてあります。ほんの二行だけ。これも最初っからこう書き込まれていた)。文科省が国立大学の課程・学科を直接「廃止せよ」と言ったのである。

 ちなみに人間文化課程は人気も上々で、学生の満足度も高く、普通なら廃止させられるようなことは絶対にありえない優良学科である。それでも私学の多い関東一円には国立大学文系の学部や組織は必要ないので廃止せよということなのだ。文学部なんて一種の贅沢品なのだから私学の高い授業料を払える学生だけで十分だと言うわけである。そこに大学の意見を差し挟む余地は一切ない。今回の国立大学法の「改正」はこういう道筋で進められているのである。だから、学長の独裁が心配なのではない。そうではなく、その背後にある政府・文科省そして彼らの政策に影響を与えている新自由主義系の政策決定者たちによる大学教育や大学文化の暴力的な破壊が心配なのだ。そして、その裏には国立大学どころではなく学生減少で経営そのものが危うくなってきている私立大学の圧力があったこともうかがえる。まあ、少子化に苦しむ私学も必死なことはよく分かるが、それにしてもこの極端な「ミッション」によって国立大学から人文系の学部や学科はどんどん縮減され、最終的には横浜国立大学は東工大に吸収合併されてしまうのではないかと危惧される。

 考えてみれば、ぼくが国立大学に来た92年、いやその前の80年代後半から、この国の大学教育政策は一貫して間違った道を歩んできた。87年に設置された大学審議会が91年に出したいわゆる「大学教育の大綱化」は、各大学独自の教育・カリキュラム改革を推進させ、その結果約五年で教養部・一般教育部はほとんどの大学から姿を消した。80年代のレーガン、中曽根政権が推し進めた新自由主義経済学の影響が強いこの改革は、要するに大学教育に競争原理を持ち込むことにより、お互いに切磋琢磨することによって教育の質や効率を高めるという効果を狙っていた。だが、なかなか思い通りにはならなかった。教養部廃止にしても隣がそうするのを見て一律に同じことをしただけのことである。

 改革が思い通りにいかない文科省はさらに締め付けを強め、そして2004年に国立大学法人化が実施され、国立大学は企業の形態を取ることになった(のくせ、文科省による運営交付金を武器としての国立大学支配は強まる一方である。公務員ではなくなったはずなのに、震災時の国家公務員の給与の一斉引き下げには強制的に参加させられた。またいつの間にか年金も一元化され、ぼくが65歳になるころには「ねんきん特別便」の試算によれば文科省共済だけだと30年弱務めても月15万円程度しかもらえない。もはや公務員イジメですべての特権が奪い取られて、安い給料・低い年金という末端知的労働者でしかないのだ。もちろん、更にそれより悲惨な退職金すらもらえない非正規職員や年俸制年期付き教員がどんどん増やされる)。こんなに長い間間違い続けてきたので、もはや何が間違いなのかすらも見えなくなってしまっている。

 これまでも複数の論者によって論じられてきたように、大学に対するこのような政策は根本的に間違っていた。短期的な数値目標の設定や、競争原理の導入は、大学教育の質の向上に一向に結びつかず、大学教員は無数の計画書や評価書の作成に忙殺され、研究を行う時間を大幅に奪われ、科研費や競争的資金を獲得するための申請書づくりに追われるようになった。民間企業の論理を大学に持ち込むことが間違っていたばかりか、この数十年の世界を見れば分かるように根本的に新自由主義経済学の予測自体が間違っていたのである。大学は年期付きの非正規労働者を大量に雇用し、教職員間の格差が広がり、大学で働く誇りさえも奪われていった。財界、産業界の要請に応え「日本経済発展のため」に奉仕しなくてはならない都合のいい若年労働者供給機関にされてきたのだ。

 だが、余りにこうした考え方が広がってしまったために、共産党や社会民主党のような弱小政党を除けばそのことを認めようとしないで、「改革の不徹底」をその不成功の理由だと考える人達ばかりがこの国の政治を動かしてきた。経営学の用語がどんどん大学経営に持ち込まれ、それがうまく行かないのは大学教員や教授会が抵抗しているからで、学長のガバナンスの強化によってうまく行くようになると考える、ぼくたちから見れば根本的にポイントがずれている人たちが「大学改革」を牽引してきたのであり、このままではもう立ち直ることが困難になるまでに大学を駄目にしてきたのだ。

 というわけで、ぼくたちの大学では我々文系教員の組織は解体され「グローバルな理工系人材」を目的とした新学部作りをしなくてはならない状況である。細かいことは一応当事者なので秘密にしなくてはならないが、現在進行形で色々なことが進められている。もう少し昔なら、学長と団交するとか、霞ヶ関でデモをするとか、署名運動するとかいう抵抗もあったのかもしれないが、これらの度重なる「改革」にすっかりうんざりして牙を抜かれた同僚たちは諦め切ってしまって気力を失っている。それはそうだろう。敵は文科省の奴隷にされて苦労している学長ではないし、実際にプランを作った総研の社員や元社員は霞ヶ関にはそもそも居ないし、署名が集まってもそれを出したらそれ専門の処理班に回されるだけなのだから、どうしていいのかすら分からないのである。基本的に、自分の頭で考えずに国が与えた「ミッション」を忠実に遂行する者だけが大学教員に求められているような場所で、教員が良心を持って生きることなどできようもない。

 2004年の独法化の時には全国的な反対運動も起きたし、怒って辞職する教員も多数居た。ぼくも含めてその時に辞めなかった教員は最初から敗北者なのかもしれない。それ以降、ぼくは自分の身の回りだけのことを考えてきた。自分の回りだけに「本来の大学」の砦を作れればいいと割りきってやってきたのだ。幸運なことにその願いは部分的には実現することができた。だが、これからはそうも行かないのかもしれない。自分の定年も近いし、もう少し自由な私立大学に移ることも本気で考えなくてはならないのかもしれない。もはやこんな「改革」が完遂された国立大学に知的な自由などが存在できるはずがないではないか?

 もちろん、それじゃどんな大学改革が有効か? と言われてもそう簡単ではない。制度や枠組みから考えても、各大学にはそれぞれの個性と特性もあるし、地域性もある。だが、要するに大学とはいつでも具体的な「人」が作るものであり、教員と学生と職員という個別的な「人」の力によって成り立っているものだ。つまり、多様性を活かすことこそが大学の持っているポテンシャルなのではないかと思う。それを、これからはこうなるから、英語で教育しろとか、学長の(ということは、その学長を操り人形にしている政府の)言うことを聞けとか、一律のFDやカリキュラム改革をやれとかいうような政策の押し付けだけで何とかできるというような発想が根本的に間違っていると思うのだ。

 それよりも優れた大学教員や大学人から提案される新しい発想やイノベーションを政策に取り入れればいいのではないかと思うが、それにはだいぶ時間がかかるだろう。そういう切り替えをするには、既に遅すぎるのだ。なぜならそんな創意や工夫などを自分たちがいくら考えても仕方ない、政府が決めた「良い大学」に近づけなければ運営交付金を減らされると脅かされてきた大学の中には、もはやそんな自由な発想やダイナミックな発信力を持った教員はいないか、あるいは本当に少数派になってしまっているからである。もしかすると片隅でExcelやWordなどを絶対に使わないようにして隠れている逸材がまだ居るのかもしれないが、日常的に求められるExcelファイル作りに自動的に反応している教員たちにはもはや望みはない。

 さらに問題なのは、独法化や国立大学改革が間違っていなかったと本気で信じている新自由主義的な立場を奉じる(競争的資金を大量に獲得してきた、申請書づくりにだけ長けた)教員の数も実際に増えてきていることである。まあ、生まれた時からこんな感じなのだから、もはやこれがおかしいとすら感じられなくなっているのだろう。リストラによってしか日本は生き残れないと思っている人たちから見れば、国立大学の文系なんて単なる税金の無駄遣いにしか見えないのかもしれない。すべての人がシステムや制度ばかりを考えるエンドレスなゲームに巻き込まれてしまい、具体的な人が動かしている個別の現場をきちんと見る思考ができなくなってしまっているのだ。こんなことをやっている政府を信じている人たちが教員にも学生にも増えていることが本当の不幸なのだが、彼らは自分たちをどんどん不幸にしているのが誰かということが全く分からないので、二重三重に不幸なのである。

 だから、最低の時代と最低の社会の中でいかにしてめげずに生き抜いていくかということだけが問題なのだ。もう大学という制度や社会システムに何かを求めることなんてできない。まあ、よく考えてみれば、程度の違いはあれすべての時代は最低だし、すべての社会は駄目なのだから、そんなにこの時代だけが特殊なわけでもないのかもしれない。しかし、教育が破綻し、無知で金儲けにしか価値を見いだせない国民ばかりになっていく――最近はマジに「日経新聞」さえ読んでいれば世界を知るのに十分だと口にするような、とんでもなく知性の低い学生たちが増えてきた!――この国にこのままでは未来はない。

2013.04.09

梅本さんの死

 このところ立て続けに周囲の人が死ぬ。梅本洋一さんの場合には突然の心臓発作で即死に近かった。以前心臓の手術はしているが普通に活動している途中で、しかも飲み会の時に突然訪れた死。ちょうど60歳の誕生日を迎えてまだ間がない。
 しかし、いくらなんでも何も突然死ぬことはないだろうに、あまりにもあっけない死だった。みんなから「室井さんも身体大事にして下さいね」と言われまくってしまった。去年の小川巧記さんの交通事故死もそうだったが、余りに急すぎる。
 この数年、都市イノベーションという大学院の件で彼とは少し余りいい関係ではなかった。が、考えてみればぼくが横浜国大に赴任してから20年間、ずっと身近な存在だった。彼と肩を並べて一緒に闘ったことも数多い。大体梅本さんと二人で組むとたいていのことはうまく行く(と言ったら誰かに「ヤクザが二人掛かりですものね」と言われた)。逆に言えば一緒にやらないことはたいていうまくいかなかったような気もする。だからこの二年間、彼のやることはすべてうまくいかないことばかりだった。
 一番最初の総合芸術課程(情報芸術コース/比較芸術コース:定員30名)の時に、教養教育のフランス語を担当していた彼に初めて映画の授業をお願いした。そのころうちにはドイツ語の専任でやはり蓮實重彦の薫陶を受けた瀬川裕司さんという人もいて、フランス系、ドイツ系の映画論の授業が二つもあるという贅沢な環境だった。あの頃はぼく自身も映画史の授業もしていたっけ。元々、松本俊夫さんに誘われて京都造形芸術大学の前身の京都芸術短期大学では映画史と映画理論の授業も持っていたし、もうやめてしまったが映像学会の編集委員もしていた(元々昔「イメージフォーラム」の編集長で今は東京フィルムセンターにいるとちぎ・あきらさんの前の代の京大映画部長でもあったし)。大学での映画の講義に関してはだからぼくの方が古いのだが、残念ながら映画という過去のジャンルに対する偏愛がぼくには欠けていた(大体何に対しても粘着質には「偏愛」できない体質である)。梅本さんとは横国に来る前からお互いに書いたもので知っていた。80年代には青土社が出していた『シネアスト』や、90年代、まだ雑誌を出していた『イメージフォーラム』にぼくも映画評論を書いていたのだ。だが、横浜に来てからは梅本さんが居るので、もう試写会に行ったり、年間何百本も義務的に見ることはきれいさっぱり忘れることができた。全く違う対象に関心が移って行ったのである。
 その後、学部改組の時には一緒にマルチメディア文化課程を作った。毎日夜中まで梅本さんも含めた「四人組」と呼ばれた若手メンバーで議論し、コンセプトを練って新しい学部の形を作った。その頃は、唐十郎さんや木下長宏さん、大里俊晴君、許光俊君も居て、充実したスタッフ陣が自慢だった。毎年、一年生必修の名物授業だった「メディア基礎論」は、梅本、室井、大里の3人で始まった(4年目に梅本さんが学生に本気で腹を立てて本当に途中で授業を放棄してしまったが、現在でも室井、清田、平倉、中川の四人で「人間文化基礎論IA」として続いている)。
 その後もずっと協力関係は続き、2009年に北仲スクールを作る時にも熱心に協力してくれた。ただ、その途中から梅本さんは新しく作る都市イノベーションという建築と芸術と土木と社会科学、地域研究というとても馴染みそうにない多領域を合わせた新しい大学院の設置にかかり切りになり、そして初代の研究院長になった。問題なのはこれが学部の組織解体とセットになって行われたということであり、結局理系の教員が新しく理工学部に移り、文系の教員だけが学部に取り残されて寄せ集めの「人間文化課程」が作られた。この人間文化課程の教員は主所属が都市イノベーション研究院(しかも建築系と土木系の二専攻に分断された)、環境情報研究院という二つの大学院、そして教育人間科学部所属という形で教員のコミュニティがバラバラに分断され、学部教育と大学院教育の両方がその土台から破壊されてしまった。梅本さんと前学部長のOさんによって、理念が完全に欠落したこういう設計思想が皆無の改組を強引に通されてしまったので、土台から立て直さなくてはならなくなった。ぼくたちの根っこは学部教育なので学部教育を立て直すためにいま課程長として頑張っている。この点において、この二年程梅本さんとは対立していたのである。本当にセンスのない学部改組、大学院設置だったのだ。だが、センスがない、という事実は絶対にそれをやった本人たちには伝わらないもので、この対立が埋まる見込みはなかった。
 彼とぼくとではその根本の美学と生き方に大きな違いがある。フランスのスノッブな文化(いわば「文化についての文化」)を愛し、実生活でもセンスのいいモノや食事に執着し、細部に宿る美を愛でる傾向の強い梅本さんに対して、世界は最低限の生きるためのセットだけで充分だ(ないと困るものはそんなに数多くない)と考えているぼくとの間には常に大きな違和感が横たわっていた。彼の愛する映画や音楽や趣味に対しても、そのほとんどに関しては全く共感することはできなかった。ゴダールやトリュフォーなんていなくたって世界は充分に完全なのである。もちろん、異なる価値観を認めないわけではない。普段はお互いにそうした対立を抑えて協力することができたのだが、ちょっとしたことでこうした対立が二人の関係の中で表に出てきてしまうこともなかったとは言えない。こんなことを書けるのも彼が死んでしまったからだ。全く、何も死ぬこたないのに...。
 都市イノベーション研究院は彼が愛した建築がその中心となる大学院だった。ぼくたちの芸術文化系のセクションは建築と一緒に「建築都市文化専攻」という不自然な名前の専攻に入れられ、入試も工学部に合わせて8月に実施され、そのため全く学生が集まらなくなってしまった。今年も定員を割り込んでいる。建築はあらゆるものをリソースにしようとする。神殿や大仏殿は神像や大仏がなければ建てられないし、それは必ずあるコンテクストやニーズに応じて作られるものだから、当然既成の芸術や文化理論も取り込もうとする。だが、一方のアートやクリエイティブな理論は建築やデザインを必要としない。それはそれらが作られる前提そのものに関わる活動性だからだ。場合によってはその前提を根底から突き崩すものでなければアートや理論に存在価値はない。かたちにするのが建築やデザインだが、かたちにならないものにアートや思想は関わっている。こんなところでも梅本さんとぼくには大きな隔たりがあった。
 梅本さんはこういう無理な構想を押し通そうとして多くの敵を作ってしまったと思う。そのストレスもこの突然の死に多少の関わりはあるだろう。このあたりのことはぼくの見方が偏っているかもしれないので、これ以上触れないことにする。彼から見るとぼくの方が何でも自分の思い通りにしようとしていたように見えていたらしい。大学の学内政治というものは人事と金の流れに集約されるのだが、彼はそのすべてを密室政治的にすべて自分の手中に取り込んでいた。それが悪いとは一概に言えないが、少なくともそこには周囲の人たちの合意形成が必要だと思うのだ。彼を取り巻いている人たちでさえもこのことには不満を持っていた。有能なので一人で何でも抱え込んでしまったのだろう。この点において彼はボタンの掛け違いをしたと今でも思っている。
 彼が学生を可愛がったことは事実だ。ゼミの学生の面倒はよく見たし、卒業生たちが作っている雑誌/ウェブの"nobody"が未だに続いていることも、その中身は別としてそのこと自体は凄いと思う。また瀬田なつきをはじめ映画製作の道に進んだ卒業生も多い。ただ、自分のところに集まる学生以外にはほとんど関心がなかったのもまた事実である。いい意味でも悪い意味でも彼が「側(がわ)の人」だったことは確かだ。カイエの編集委員だった彼は、フランス人たちの誤解による大島渚に対する過剰な評価の踏襲を貫き通したし、ヒッチコックやトリュフォー、キタノや黒沢、青山といった人を常に擁護し続けた。結論は最初から決まっているのだ。北野の映画に対してもカンヌで激賞された「菊次郎の夏」を一番高く評価するなど作家理論的な無理な評価を押し通したし、イーストウッド映画はどんな作品でもすべて評価するなどという〈側〉の論理を貫いた。日本の映画作家を育てようとはしていたが、それらはすべてカンヌやヴェネチアなどのヨーロッパの価値評価軸に向けられていた。多分それは自覚的なものだった。だけどそれは本当につまらないことだ。つまらないことにずっとこだわり続けたのが梅本さんだった。
 ぼく自身は映画というジャンルは80年代に死滅したと思っているが、何かの折に梅本さんと飲んだ時にそう言ったら、ぼそっと「本当は俺だってそう思っているよ」と呟いたのが印象深く残っている。だとすれば、彼は既に終わってしまった表現ジャンルと、既に終わってしまった「カイエ」的な映画評論やカンヌ的な「批評家賞」といった祭りにすべてを賭けていたのだ。そんなに目をかけてもらっていたとも思えない蓮實重彦さんのことも常に気にかけていた。だから彼は「偏愛」の人である––一度愛してしまったものをずっと愛し続けるという点において尊敬すべき点もあったが、余りに窮屈すぎると思えることもあった。こんな梅本さんのところに集まった学生たちは、結局は梅本さんには勝てないのだろうな。その点で彼自身は一貫してオリジナルではあったと思う。一時期の彼は映画監督になって大学を辞めることを夢見ていた。「俺が映画を撮るとなったらカンヌで賞を取らないとかっこうつかないでしょう?」と言っていたが、ああそれは勘違いだなあと思っていた。そもそも監督になりたいというのが本音だとしたら、何のために映画評論をしてきたのかよく分からない。結局、プロデューサーが資金を集められなくてその話は進まなかったが、その時のやりとりもよく覚えている。本気で映画を撮りたかったのなら、そんなことに関係なく撮ればいいと思うのだが、結構体面にもこだわっていた。組のボスになってしまった宿命かもしれない。ぼくも気をつけるようにしたい。
 死んだ日本美術史の千野香織と駿台予備校時代に一緒だったことをよく話していた。四方田犬彦さんも彼の自伝的著作「ハイスクール1968」の中で触れている。四方田さんとは一緒に映画雑誌を作ったり、また四方田さんが唐さんの「佐川君からの手紙」で唐さんと佐川一政の間をつないだ時に、パリで唐さんがサンテ刑務所で面会するための書類を梅本さんが作ったというようなこともあったらしい。四方田さんとはそのあと大喧嘩をして犬猿の仲だったが、奥さんの垂水千恵さんから四方田さんが病気で明治学院大を辞職した時にそのことを心配したハガキが梅本さんから届いたと聞いている。いろいろと細かいことを気にする人であったことは間違いない。その根底においては優しい孤独な人だったのだろうと思う。
 いずれにしても、彼の存在感が大学の中でも際立っていたことは確かだ。丸坊主で(出会った頃は薄くなった頭頂部を隠すような長髪だったが、丸坊主なのに中山美穂が行く青山の美容院で散髪していると変な自慢をしていた)でかくてガッツリしていて威圧的なのに、意外な優しさや弱さを見せる彼に影響を受けた学生も多いだろうと思う。とにもかくにも、目の前からかき消されるように急にいなくなってしまった、この味方でもあり敵でもあった同僚の死にぼく自身が大きく動揺していることは隠せない。それと同時にこの同年代に近い同僚の死からは、これから何年後か、あるいは数十年後かは分からないがぼくもいずれはそっち側に行かなくてはならないこともまた意識せざるをえない。せめて何かの発作を起こしてから死ぬまでに何かを言い残せるような死であって欲しいものだ。ポックリ死はその本人には理想的かもしれないが、残された者たちにはたまらない。
 卒業生から大里君、梅本さんと相次いで早く死んでしまった人と一緒に3人で「メディア基礎論」をやっていたぼく一人が取り残されて、さぞ孤独だろうというようなネットでの書き込みがあったのを見た。別に取り残されたわけではないし、他にも愛する人たちは沢山居る。まだまだしぶとくやっていくので過去の人にしないで欲しいものだ。やりたいことは山ほどあるし、今だって闘っているのだから。
 それにしても彼が残してしまった巨大な荷物である大学院とボタンをかけ違えられた学部の人間文化課程の修復に関しては何とかしなくちゃいけないな。愛する職場なのだから。
 彼の葬儀の時に書いて、一度アップした文章なのだが周囲の人たちの気持ちを考えて一度削除しました。改めて彼のご冥福を願って再アップロードしておきます。
 

2011.05.01

togetter:横浜国立大学、(旧マルチ)人間文化課程のことについて

 twitter上でのyamasawa8911君とのやり取りがここにまとめられている。編集が不正確だし、関係者の誰にも了承を取らずにアップしたりするのはマナーに欠けるとは思うが、ともかく既にアップされてしまい来訪者数も400を超えているので、ここでコメントしてみたいと思う。なぜなら、元々は「人間文化基礎論IA」という今年から新設された横浜国立大学教育人間科学部人間文化課程の授業における、新一年生からの一連のリアクションにぼくが腹を立てていくつかtwitter上に書いたことがきっかけになっているからで、この授業に現在関わっている一年生諸君や、かつてこの授業の前身の授業「メディア基礎論」に関わった旧マルチメディア文化課程(マルチ)の過年度生たちも関わっていることだからである。たまたまyamasawa君の勇み足でこうなってしまったが、こうなったらこうなったで、どうせならできるだけ多くの学生諸君に読んでもらって、考えてもらいたいと思っている。次回の授業は5月11日だ。

 この授業は98年にマルチが最初の学生を受け入れた時から、3名の教員が新入生と正面から向かい合うという形式で始まった。初期にはぼくと梅本洋一と大里俊晴。梅本さんが腹を立てて5月の授業途中で帰ってしまい二度と戻ってこないという事件があってから、基本的にはぼくと大里君、榑沼範久君の3人で続けてきた。その後、榑沼君が(疲れて)抜け、清田友則君が代わりに入り、大里君が亡くなってから平倉圭君、そして今年は見習いで中川克志君にも入ってもらっている。ぼくも2001年に学生に腹を立てて授業を途中で打ち切ったことがある。こんなことをしているのは、学生たちがどうせ「授業」だし、教員たちも単に「システム」に従っているだけだろうと観客席におさまりかえっているのが耐えられなかったからだ。これはブートキャンプのようなつもりでやっているので、学生ばかりではなく教員側にも物凄いコストとリスクがかかっている授業なのだが、十年以上続けてきて、それだけの価値がある授業形式だと思っていて、「おっさんたちの雑談を聞かされるだけで苦痛だ」という学生たちと本気で闘いながら今年もまた続けている。

 旧マルチを作った時に、少なくともぼくは大学を辞める覚悟で自分の時間のほとんどを犠牲にした。だから、ぼくはマルチを愛していたし、それがやる気のない「普通の」学生たちで占められるのはたまらなかった。初期の学生たちは多少はそれに応えようという気風を持っていて、ほとんど既存の学内サークルには入らず、大学祭にもマルチ単位で参加したり、後には学祭に反発して独自の「マルチメディア文化祭」を開催したりしてくれたが、だんだんと惰性に流され風化していった。一部の学生は今でもまだ「マルチ」にこだわってくれているが、大多数は「そういうのウザい」と口にするようになって、最近はもう終りにする潮時かなと思っていたところ、さまざまな学内事情で学部の教員養成系を除いた文系だけが統合され、この新「人間文化課程」ができたのである。これまでの学生定員90名から150名に一気に定員数が増えたところに、震災による後期入試中止のせいで想定外の190名を超える一年生が入学してきた。

 彼、yamasawa君は、アカウントから察するに89年生まれのマルチの学生で、愛すべきところはあるが、根本的に大人や社会の既存のシステムに甘えており、思慮が浅いのに反射的かつ無責任に反応してしまうという欠点をもつ、まあ言わば普通の思春期後期の学生である。彼がぼくに対して基本的には好意をもっていてくれているのは分かっているのだが、最初にぼくが彼に腹を立てた発言は以下のものだった。

>てか室井先生って大学から金もらってるくせに日本の大学は終わってるとか言ってんだよなウケる。
>大学の外から言えば説得力あるけど、そしたらたぶんぼくとは出会わなかったんだろうなあ。そう考えると微妙だ。

 この発言には@がついていない。だから彼は「空中にリプされた」(意味不明)と言っているのだが、それくらいの調べはすぐつく(笑)。ぼくがフォローしていないからと言って学生諸君はけっして安心してはいけない(笑)。

 この言い方や、その次に彼が書いてくる、

>本当は違うのかもしれないですが、でかいバッタを作ったりその他内輪ネタっぽいアート
>的行動全てに授業料なり税金なりが使われてるように見えたりしますよ。
>それあっての「金もらってるくせにウケる」でしたね。

 も同工異曲で、こういう言い方は絶対に見逃さないし、許さない。ぼくが彼に文句をつけているのはその点にほかならないし、逆に言えば一貫してその点だけである。とても失礼である。

 なぜならぼくが「大学から金もらっている」とか、ぼくがやっていることに「授業料なり税金が使われている」というような言い方が含意している当てこすりは、意味が無いばかりではなく無知と無自覚な邪悪さをさらけ出しているからだ。これらの言い方には「金をもらったら批判する権利がない」とか「金を払っている人に還元されない内輪っぽい行動に、(ぼくたちが払っている)授業料や税金が好き勝手に使われている」というようないじけているばかりではなく、自分をクレームをつける権利を留保している良心的市民になぞらえるいやーな姿勢が含まれている。ちなみにバッタ("The Insect World")はけっして「内輪受け」ではないし、事実としてぼく自身も驚くような大きな社会的な反響をもたらしている。『巨大バッタの奇跡』(アートン新社)というドキュメント本も出しているので、これを読んでもまだそう思うのなら批判してもいいが、上記のような、よく知りもしないただの当てこすりや嫌味は一緒に命がけで戦った人たちのことを考えてもけっして許せない。そう言えば先週末に3,4年ぶりに学内公演をした劇団唐ゼミ☆の新歓にも一年生たちはあまり来なかった。一度も見もしない、知りもしないで、馬鹿にしたり決めつけたりする学生にはいつも腹がたつ。北仲スクールにしても、100人以上来る授業の後にも2Fのサロンに降りてきてコミュニケーションしようとする学生はとても少ない。北仲はけっして大学ではできない様々なことを実現してきたし、今も実現している。なぜあれをやっているのかということを理解しようとすらしないで冷笑している学生たちにも本当に腹がたつ。反面、理解者もどんどん増えてきてはいるのだけれど。

 ぼくが大学から貰っている給料や研究費は、文科省の大学運営交付金からシステムに従って配分されている。これは大学に着任した時の契約に基づいている。けっして「個別な組織としての大学から金を貰っている」のではない。その時にぼくは大学教員として自由な研究と高度な教育と教授会を中心とする大学運営の三つの業務を引き受けている。これは事務職員とは違い、自由な個人もしくは自分の良心にしたがう研究者としての契約である。2004年の国立大学の独法化に伴い、大学執行部の権限が強化され、教授会の権限が制限された(そのことに抗議して退職した教員たちも全国で沢山いた)が、少なくともぼくは今でも就任時の契約が有効であると思っている。また学長は教職員の選挙で決まるので最低限の「大学の自治」は担保されている。だから大学にいる限り、金もらおうがもらうまいが、自分は自由な人間として行動するし執行部も批判する。それが違うというならすぐに退職する。しかも、国立大学の給与は大企業や私立大学と比べるととても安い上に、このところの公務員批判のあおりを食って毎年減額が行われ定期昇給を入れてもほとんど増えていない。これほど働いているのに割に合わない。もちろんこんなのは比較の問題だから、大量の非正規雇用者や派遣社員、フリーターと比べれば恵まれているとは言える。だけど、長年にわたってそれなりのコストはかけているし、それなりの実績も積み重ねていると自負している。立ち腐れつつある大学を立て直すことができるのは、大学の中にいる人間たち以外にありえないではないか?!

 そもそも税金だろうが、私企業の収益だろうが、いったんそれらが集められ、再配分される時には全く別なシステムが介在して働く。税金が国家という暴力装置が国民から収奪する財であることは確かだが、私企業が消費者から収奪する財の方がより正しい収益であるなどということはない。マイクロソフトを初めとするIT企業や、最近の例で言えばJALや東電によるぼったくりによる収益の方がより犯罪的であり、より悪質な収奪であるとも言える。そこから国家がさらに掠め取る分が税である。山賊と山賊の棟梁のようなものだ。民間が善で国家が悪などというのは新自由主義経済学の広めたデマにすぎない(そういえばyamasawa君も竹中平蔵をRTしてたっけ?)。そもそも、元をたどればすべての財は自然から人間が勝手に収奪してくる「不正な富」にほかならない。ぼくは、自分のやりたいことをやるために税金や企業の寄付金が元になっている行政組織や財団からお金を「自分の力で取ってきている」のであり、そのためには企画書づくりから、面倒な予算書や何十ページにもわたる申請書を自分の時間を何十時間も割いて、何倍か何十倍かの「競争」に勝って助成金を獲得しているのであり(負けることも沢山ある)、何も知らない奴から「税金にたかっている」みたいな言われ方をする覚えはない。だから、「ふざけるな」ということになる。

 多分こういうことを言っても、yamasawa君は「ああ、そうでしたか。すみませんね。でも若い世代にはそんなことは分からなくて当然ですから、そちらにも説明責任があるんじゃないですか」というようなリアクションをしてくるだろう。こういうところも、彼のとてもよくない点である。とにかく「説明責任」とか「コストパフォーマンス」とか「経済原理」とか中途半端な概念を中途半端に使い、自分の責任だけは回避する。甘ったれているとしか言いようがない。それなら、ぼくや相手をしてくれた大人たちのかけたコストについてどう思うのかと問いたいが、まあそれはどうでもいい。コストとかのことをぼくは一切考えたくないからね。ただ、北仲に来るための数百円の「コスト」のことまで持ち出されるとムッとする。金がなければ歩いてくればいいじゃないか。貧乏なのは仕方ないが、貧乏たらしいことを口にするのは本人の問題である。結局彼は、メディアやネットで流通している断片的な知識を適当につぎはぎしているだけなのでこういうことになるのだろう。とても浅薄に見えてしまう。

 そこで、次のように書いたわけだ。意味は、ネットをやめるか、せめて一日数時間に限定して、じっくりと物を考えたり、集中して本を読んだりする習慣を付けた方がいいよ、ということである。ぼくに面会しにくる時間がないと言うが、連休中とは言えtwitterだけ見ていてもネットに繋げすぎで、完全にネット依存症だ。これではまともな知的営為ができるはずがない。勿論彼は試しに助言に従ってみるつもりは全くないようだ。

>さっきのようなタイプの学生への有効な助言は「ともかくネットにつなぐのヤメなさい」に尽きる。
>話はそこからだ。本当に滅びるぞ。それができればちゃんと相手をしよう。
>しかし仮想空間に逃避すらせず、ダンスサークルやテニサーに埋没するタイプにその薬は効かない。
>逃げ道を断つしかないが沢山ある。

 ここからが、彼が一番こだわっている(その程度の知識で、本気か?)ように思えるネット論に関わる話である。彼はどうしてもネットで議論したいらしく、ぼくと会うことを極度に避けようとしている。実際はまあ、怖いだけだと思うけどね。大丈夫。退学になんてしない(し、またできるわけない)から(笑)。ただね、ここまで読んでみれば分かるように、きちんと文字で会話をするためにはたいていこれくらいの分量と労力は必要なので、twitterの限られた文字数で「議論ができる」と思っていることの方がきわめて異常なことなのだ。その点でもネット依存から離れることを勧めたいと思う。

>ぼくは大切なのは"論"であって顔晒すとか自己同一性とかどうでもいいと思ってるんだけどね。
>重要なのはその論に対して論破できるものがあるか否か。TL汚して本当にすみませんでした。

>先生が知っている「ネット」というのと、SNSで作られた新しい空間には違いがあるのでは、ということです。
>違わないのならその根拠となる文章が読みたいですね。

 SNS(Social Network Service)とはまた古い話を持ち出したなというのが実感である。もちろん、何の違いもない。ネットはいつの時代でも現実のコミュニケーションではできないことを補完することはできても、けっして現実のコミュニケーションに追いついたり、完全にカバーできたりすることはないし、未来においてもそうだろう。ぼくが昔書いた『情報宇宙論』(岩波書店)や『電脳交響主義』(NTT出版)を読めばいい。80年代からネットを自由な「アゴラ」と考え、夢を賭ける人たちはいた。そして、それはすべて幻想だったことが10年ほど前になるとはっきりした。ちょうど西垣通が東大の「情報学環」を立ち上げた頃で、人々がインターネットを相対化し始めるようになった頃だった。

 ネットでの論争とか議論は、ごく一部を除いていつも不毛である。それは、文字だけが残るために細部の表現に対する当てこすりや恣意的な誤読や悪意の無限連鎖に引き込まれる傾向をとても強く持っているからだ。また、現実なら、話をしてみて「こいつ馬鹿だな」とか「適当に話を打ち切ろう」ということができるが、ネットではしつこく言い募る方が「勝ち」を宣言できるのでたちが悪い。以前タバコの話の時の嫌煙者や山形☆浩生にしても、こっちがこんな下劣な奴らと話は続けたくないと相手するのをやめて議論を打ち切ったら、勝手に「逃走した」とかネットでしつこく言われまくった。だから、「トラップをかけた方が勝利する」仕組みなのだよね。まあ、こんなのも見る人が見ればどっちが正しいかはすぐに分かるのだけど、分からない人たちにはいつまでも分からないようだ。だから、顔を知らない人と議論なんてしない方がいい。もちろん顔を知っていても議論したくない人もたくさんいるけど。世の中には話が通じない人や本当に品性が卑しい人は沢山いる。そんな人たちと関わり合いにならないためにもネットで議論をしかけたり、受けたりしてはいけない。本当に重要なことなら会って話すか、せめて電話で直接話すべきだ。だから、まあskypeは代用にならないこともない。

 歴史を見れば80年代の草の根のパソコン通信時代にBBS, Mail, Chatという基本サービスが始まり、95年頃からWebを中心とした現在のインターネットの形態が定着した。このころぼくはフリーソフトウェア運動と関わり、地域BBSによるネットコミュニティ作りの手伝いをしていた。その後、日記を統合する八谷和彦の「メガ日記」やメールのコミュニケーションをデザインした「ポストペット」、クリエーターだけを会員にした「タイガーマウンテン」BBS、ヴァーチャル・ワールドを作ろうとした「World Chat」や「ハイパーメディアクリエーター」高城剛が始めた「フランキーオンライン」、松岡正剛の「イシス」など数多くのネットコミュニティ作りの試みがあったが、結局はWebだけになってしまった(濱野智史の『アーキテクチャの生態系』はこの辺りのことを全く知らないらしく議論の前提が間違っており、単に2ch.とニコ動を自慢したいだけの無内容な本としか言いようがない)。その後2003年ころにRSSを用いたblogが始まり(このころNTTのGooの設計思想に研究会で関わったりもした)、次に2005年頃からSNSブーム。当初はGreeのようなセレブと業界人たちのプレミアム・サービスだったのが、大衆化されたmixiのような匿名許容のサービスになってしまった。ただ、韓国のCyworldやMySpace、Facebookのような個人ページを中心とし、現実の人間関係の拡張につながるようなシステムから、当初は有名人やジャーナリストがリアルタイムで情報を発信する速報メディアとして始まったtwitterのように、匿名の大衆が無数の呟きを発信する「呟きの海」のようなメディアに変質していく流れにはかなり日本の特殊性が見られるように思う。結局は、それは2ch.やニコ動のような匿名による会話空間に接合されていることによって無責任なゴシップ雑誌のようなダメな方向に流されているように思われるのだ。

 端的に言って、匿名による個人批判や告発は常に「卑怯」である。トイレの差別落書きと同じく、自分が安全な位置に居て他人を攻撃したり中傷したりするのは人としてやってはいけない行為だ。yamasawa君は「匿名だから企業の内部告発とかできるんでしょ?」と書いていたが、あれだって「卑怯」で人としてやってはいけないことに変りない。ソフトの不法コピーに対して「密告」システムが作られているが、「内部告発」って卑劣な「密告」であることに変りない。自分のリスクを賭けて告発すべきなので、まるで内部告発が社会正義のように言い繕う社会の方が間違っているのである。その点で「尖閣ビデオ」を流出させた職員は辞職したし名乗りでたのでまだしも筋が通っている。もっともあれを有罪にできない社会はおかしいと思うけどね。というわけで「弱者」や「被害者」や「学生」だから、「匿名」で社会批判していいということにはけっしてならない。なぜ、もっと誇りをもって生きられないのかと思う。いつでも顔を晒して話すべきなのだ。余りに耐え難い状況に置かれて、口を開けなくなっているのでなければね。アウシュヴィッツのユダヤ人や奴隷はけっして話すことすら許されていなかったのだから。

 ただ、yamasawa君が「しがらみや、利益や、立場に縛られない自由な言説空間」を求めるのは正しい。ぼくたちもそういう古代ギリシャの広場のような空間(アゴラ)や、すべてを話すこと(パレーシア)について、ちょうど今ヴォディチコと一緒に考えているところだ(ミシェル・フーコーの『真理とディスクール:パレーシア講義』筑摩書房は読むべきだ)。

 けれどもそうした自由な言説空間はけっしてネットではないし、ましてやtwitterでもない。そんな安易なものではありえない。また、そうした空間は環境としてあらかじめ誰かによって用意されるものではなくて、自分自身を危険に晒しながら血を流して創りだしていくものでしかありえないと思う。パレーシアはつねにリスクの中に身を晒しながら自分の考えを話すことなのである。まあ、もはやyamasawa君や彼と会話を交わしているマルチの上級生たちのツイートは、下らないシモネタや情けないぼやきも含めて、ぼくに全部モニタリングされているからね。ある意味君たちはツイッターを続ける限り顔は晒さなくても、中身を晒されているとも言えるけど(笑)。

 というわけで、これだけ長い文章をぼくに書かせたのだから、yamasawa君は勝ったのだと言うこともできる。だから論争はもういいから、一度研究室でも北仲にでも挨拶に来なさい。来たことないのなら北仲に来ることを勧める(笑)。

2010.11.19

事業仕分けと文部科学大臣記者会見

 こういう生々しいことをここに書くのは少し憚られるが、11月18日の事業仕分け第三弾における大学関連予算の再仕分と、それを受けて行われた高木文部科学大臣の記者会見を見て、すっかり頭が痛くなってしまった。

 ぼくが代表になって進めている馬車道にある「北仲スクール」事業は、まさしく今回「廃止」と仕分けられた「大学教育のための戦略的大学連携支援プログラム」という「競争的資金」で運営されている。3年間、年1億円ずつで合計3億円の事業予算が組まれるはずだったのが、実際は自民党政権時代に削られて一年目は8600万円、二年目の今年は民主党の仕分けを受けて自主的に減らされて約7000万円。そして、来年はもし行政刷新会議の言うとおりになると事業打ち切りになるかもしれない。この予算は、平成20年度と21年度の二年間だけつけられ、今年度は新規募集を停止していたが、来年からは「地域・社会の求める人材を養成する大学等連携事業(大学教育充実のための戦略的大学連携 支援プログラム」という新しい名前(刷新会議が言うところの「看板の掛け替え」)で復活する予定だった。それも仕分けで「継続分も早期に廃止」と決め付けられたのである。言うまでもなくそれは北仲スクールの個別の評価ではない。何十もある競争的資金をいくつかのサンプルだけの事例をもとに廃止と決め付けられたのである。しかも、そのための議論はこの枠に関しては約10分間くらいしか行っていない。ぼくたちがやっている事業が彼らの言うような税金の無駄遣いや研究機材を買う口実になっているのかどうかは、このサイトでの北仲スクールの事業紹介を見てほしい。全くそのような批判には当たらないことはすぐわかることだ。

 いずれにしても7000万円でも十分に大きな金額である。もちろん3割も減らされてしまって、ぼくたちはいまとても困窮している。七大学に分配して事業をやってもらうだけではなく、我々の場合には横浜の都心部にサテライトスクールを設けて運営するのだから、家賃も事務所費も、そして人件費も必要である。人件費は3年間しか身分保証がないので低い給料の臨時雇用の形でしか雇えない。いま、大学や役所ではこういう「非正規雇用」の人たちがどんどん増えている。それは、国立大学の独立法人化や予算縮減でどんどん経営が苦しくなっているからだ。もし、事業廃止となればこれらのスクールのための機材や設備も全く無駄となるし、安い給料で働いているスタッフたちも路頭に迷うことになる。そんなことがあんな形ばかりの「仕分け」で決められていいのか? しかも、彼らの評価コメントを見ると彼らは大学の現場が置かれている状況のことを何一つ分かっていないことがすぐに見て取れる。

 2004年の国立大学の独立法人化によって国立大学を取り巻く状況は大きく変わった。規制がゆるやかになってフレキシブルになった部分も多少はあるが、何よりも国からの運営交付金が毎年5%ずつ、ある年には10%もカットされるようになって大学の資金繰りはとても難しくなっていった。非常勤講師枠もどんどん減らされ思うようにカリキュラムが組めなくなり、常勤教員は自己評価や成果報告などの雑用に追われて研究に当てることができる時間もどんどん奪われていった。それは、自民党政権の政策で、大学にどんどん競争をさせ、国からのお金を減らす代わりに企業などからの外部資金や、科学研究費やCOE、GPに代表されるいわゆる「競争的資金」を獲得することによって、いい計画を立てた努力を怠らない大学にだけ資金を分配するという仕組みと一体の政策だったのである。

 そのため、科学研究費には全員応募しないと研究費を減額するなど、とにかく外部資金を獲得できない教員や大学はダメなのだという締め付けが生まれた。実際には科研費などは学会政治によって恣意的に決められる部分も多いのに、とにかく科研費をたくさん持ってくる大学や人が偉いという競争をあおる政策が大学に押し付けられたのだ。こういう競争原理を大学に持ち込む政策は多くの弊害をもたらした。新自由主義的な市場原理を大学教育の現場にもたらしたことによる大学の荒廃は著しい。このことをぼくたちは日本記号学会の出版物『溶解する大学』で取り上げたことがある。

 今回の「仕分け」をしている人たちもまた、このような市場原理や効率を大学に押し付けたいという点では、独法化を推し進めた人たちと同じタイプの人々だ。やたら、成果の具体的なデータとか数字とかを求めてくるところも自民党の教育政策担当者と全く同じタイプの人達である。慶応義塾大学経済学部の土居丈朗という民間仕分人のコメントを聞いていると、あまりにひどくて頭が痛くなってきてしまった。大学カリキュラムの標準化が必要などというコメントを平気でする人である。学習指導要領や検定教科書を大学にまで持ち込みたいのだろうか? まだ若くぼくたちが茨木市に住んでいたころには茨木高校の高校生だったらしいが、こんな人を教育政策の論議にまで踏み込ませるのでは国の将来は本当に危ないと思う。狭い専門領域しか知らない教養のない人物だ。

 彼らの「仕分け」の論理には根本的な事実認識が抜け落ちている。

 「金のバラマキ」、「研究機材を購入する口実にされている」、「かならずしも成果を上げているとは言えない」という指摘はその通りである。なぜなら、元々競争的資金とは、餌をぶら下げて競争をさせるためのツールなのだから、「頑張ればおいしい思いができる」ような釣りエサにほかならないからだ。いまさらそんなこと言ってどうする? としか思えない。

 枝野氏を含め、仕分け担当者に徹底的に欠けているのは「これらの事業は大学の通常業務なのだから運営交付金で行うべきだ」という発言から見て取れるように、競争的資金と大学運営交付金の大幅減額とがセットになっているという認識である。これらの大学教育支援をもし切るのなら、それは同時に運営交付金の予算を増額するということと一緒でなくてはとうてい釣り合わない。彼らの評価コメントを見れば彼らが完全に国立大学の状況に無知であることは一目瞭然である。

 だが、本格的に頭が痛くなったのは、本日行われた高木文部科学大臣の記者会見での談話である。何と、この人もそのことが全く分かっていない。
 私たちが組んだ予算は本当に必要なのだから、これからは政治判断の領域に入り、何としてでも我々の予算をそのまま成立させる、としか言っていない。

 つまりは誰もが問題の本質を理解していないまま、予算の廃止と存続、効率化とかの空虚な論争が行われているだけなのである。それならば、問題は独立法人化以降の大学政策にあるのだから、そこのところから見直していかなくてはならないはずだ。だが、誰も民主党政権が5年も持つとは思っていないから、目先の国費の削減ばかりが優先される。大学は「天下りの温床」でもなければ、「無駄な箱モノ」でもない。それぞれの事業には具体的な人間と学生たちが関わっており、みんなかどうかは知らないが、少なくともぼくたちは必死で頑張っているのだ。もし、それが大学の通常業務内でやるべきだと言うのなら、運営交付金を大幅に増やしなさい。そうでなければ話が全く通らないではないか。

 ぼくは、自民党がやっても民主党がやっても何も変わらないと最初から思っていた。だが、長期政権には長期の見通しが立てられるというアドバンテージがあったのだ。民主党がやるべきだったのは、独立法人化の見直しと、大学への市場原理の導入が間違っていたという根本的な見直しだったはずだ。ところが、結局は彼らがやっていることも新自由主義的な市場万能主義を教育現場に持ち込もうとすることだったわけだ。しかも長期的展望もなしに。

 多分見通しとしては、ぼくたちの事業は継続できるようになるだろう。どれだけ予算がカットされるかは分からない。だが、少なくともぼくは金のために北仲スクールをやっているのではない。金が出ないなら出ないで、それなりの方法でやりたいことをやっていくだけのことだ。何でも予算や金額だけで人々や組織をコントロールできると考える人たちとは違う生き方をしたい。政治や経済だけで世の中を動かせると考えるのはあまりにも傲慢である。ただ、せめて人々のやる気を削ぎ、ますますこの国の未来を閉ざしていくような政治を続けるのはやめてほしい。必要なことは市場原理主義的な政治家、経済学者、経営コンサルタントらを各省庁から一掃することだ。別に慶應を目の敵にするわけではないが、竹中平蔵のような完全に失敗した新自由主義者をいまでもコメンテータにしているマスコミや、民営化や「小さな政府」が望ましいと考えて、こんなひどい格差社会を生み出した人たちには早く退場して欲しいものである。単純に迷惑だ。

2010.04.08

北仲スクール授業開始(誰でも受講可)

 最後には大きな盛り上がりを見せた椿展終了後、日の出サティアンでの唐ゼミ☆秘密公演「愛の乞食」、京都国立近代美術館での河本信治の最後の(?)展覧会「My Favorite」のレセプション日帰り旅行、卒業式などなど、あっという間に3月が終わり、4月に入った。

 ここから北仲スクールの授業が本格的に始まる。授業は大きく分けて「都市文化系」(映像文化論、アーバンアート論、アーバンポップ論)と「都市デザイン(建築)」系(インナーシティ論、ランドスケープ論、都市デザイン論、横浜建築都市学)の講義科目と、ワークショップ科目に分かれる。七大学連携のスクールではあるが、一般市民・他大学の学生、つまりは誰にでも無料で開かれている。その他にも、横浜国大が開講している通常科目のいくつかも北仲スクールで開講しており、これも誰でも聴講できるようになっている。

初めてのことなので一体どうなることか分からない。10日土曜日3:00から全体ガイダンスが開かれることになっているが(こちらも誰でも参加可能、予約不要)、これも一体どれくらいの人が来るのか全く分からない。

 水曜日に音楽評論家の平井玄さんが担当する横浜国大の通常授業「現代思想を読む」が午後1:00から北仲スクールで始まったが、5,6人しか来なかった。同じように火曜午後1:00からは大谷能生さんの授業「メディアと芸術」が開かれるのだが、このままだとこちらもおぼつかない。

https://risyu.jmk.ynu.ac.jp/gakumu/Public/Syllabus/DetailMain.aspx?lct_year=2010&lct_cd=5331708&je_cd=1

https://risyu.jmk.ynu.ac.jp/gakumu/Public/Syllabus/DetailMain.aspx?lct_year=2010&lct_cd=5231702&je_cd=1

ついでに、梅本洋一担当の「映像文化論A」(横国での名前は「映像論C」)は、4月13日から隔週火曜日5,6限。

https://risyu.jmk.ynu.ac.jp/gakumu/Public/Syllabus/DetailMain.aspx?lct_year=2010&lct_cd=5251703&je_cd=1

ササキバラ・ゴウ担当の「アーバンポップ論(芸術環境論C)」は9日から毎週5限

https://risyu.jmk.ynu.ac.jp/gakumu/Public/Syllabus/DetailMain.aspx?lct_year=2010&lct_cd=5551723&je_cd=1

最後に今日が一回目だったぼくの「アーバンアート論」のシラバスがこれ

https://risyu.jmk.ynu.ac.jp/gakumu/Public/Syllabus/DetailMain.aspx?lct_year=2010&lct_cd=5451716&je_cd=1

ちょっと抽象的ですが、これまでになかった試みとしていろいろな新し試みをやります。

こんな面白く刺激的なラインナップを用意したのに、どうやら横浜国大の学生たちは丘の上から都心に降りてきたくはないらしい。ぼくの第一回目にも社会人や、卒業生は来たが現役の大学生の数は少なく、しかも横国以外の学生は誰も来ない。うすうすは感じていたが、彼らは真に面白い知識を得ることよりも、田舎のキャンパスに閉じ込もって退屈なありきたりの講義で居眠りをしながら単位をかき集めることの方が好きらしい。

それが分かったのでこれからはどんどん社会人と他大学生に受講募集を行いたいと思う。偽学生大歓迎。いや、偽ではなくて北仲スクールは「誰にでも、無料で」開校されているのだから立派な正規学生である。横浜・馬車道近隣に住むすべての知識難民はここに集って欲しい。みなとみらい線馬車道駅直通ですから、東京からのアクセスもとてもいい。これからは学生集めもその方針で行こうと思う。

言っとくけど、こんな面白いことはそう何年も続かないので今しかないよ。

まもなくこのスクールの目玉となるワークショップ科目の情報も発表されます。

都市デザイン系を含めた詳しい授業開講情報はこちら。

http://kitanaka-school.net/news/2010/04/-news-9-20100408.html

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